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何故ここに晴信お仙の記念碑があるのか?

鈴木春信とお仙の記念碑が谷中の大圓寺にあります。 歴史や美術に詳しい人なら、お仙がいた水茶屋「鍵屋」は谷中天王寺の子院、福泉院(現・功徳林寺の位置)の門前にあったと、すぐに反論するでしょうが、そのことを承知の上で、敢えて、ここに記念碑を建設したようです。

大圓寺
大圓寺。
鈴木春信と笠森お仙の記念碑
鈴木春信と笠森お仙の記念碑。

そのことは大正時代の雑誌「錦絵」に書かれています。

雑誌「錦絵」晴信号

浮世絵の開祖・鈴木春信の百五十回忌を迎えるにあたり、文芸、浮世絵研究家の有志が集まり相談して、晴信の業績を顕彰する記念碑を建設しようということになります。

雑誌「錦絵」晴信号

集まったメンバーは当代を代表する文化人、永井荷風、坪内逍遥、笹川臨風、池田輝方、鏑木清方など。壮々たる面々が「晴信會」なるグループを結成します。 百五十回忌をやるはいいが、そもそも、菩提寺・お墓の所在が一切不明という一大事に気づきます。

記念碑建設の候補地

どこかに記念碑を建立して法事を行なうため、候補地に挙がったのは、晴信のかつての住居近く。古い書物によれば、居をかまえたのは神田白壁町、深川、両国米沢町などと出てきます。浮世絵類考に両国米沢町住とあるので、両国公園ではどうかということに。しかし両国公園は東京市所有に付き、手続きが面倒で、事務方が奔走しますが、命日までに間に合いそうにありません。深川公園も同様の理由でボツ。 次に江戸名所ということで、待乳山という案が出ますが、石材の運搬が難しく、また地所が高く、購入が難しいということでお流れとなります。

待乳山聖天
待乳山聖天。

ここまで話がこじれると、一同は発想を転換。晴信の代表作「笠森お仙」繋がりではどうかということになります。 ならば、功徳林寺の門前か、笠森稲荷の移転先の養寿院ですが、いかんせん、人の出入りが少ない。

功徳林寺
功徳林寺。
養寿院の笠森稲荷
養寿院の笠森稲荷。

記念碑は人に見てもらうのが大前提。当時、谷中の笠森稲荷といえば大圓寺で人の出入りも多い。福泉院にあった笠森稲荷も大圓寺の笠森稲荷も元はといえば大阪府三島郡清水村大字真上の稲荷を分詞したもので兄弟稲荷と言えるし、用地買収も法事の心配も無いということで、ここに決定します。反対意見も多々ありましたが、碑文に「今と古と其處を異にす」の文章を入れることで納得させます。かなり、力ずくの結論ではありましたが、ようやく記念碑の除幕式を迎えることとなります。

晴信お仙記念碑除幕式

鈴木春信百五十回忌にあたる大正八年(1919年)六月十五日、早朝から大圓寺門前に人々が集まり始め、午前八時過ぎには黒山の人盛りが出来て、警備に来ていた谷中署の警官が危険を感じて門を閉じます。当代一の人気芸妓、新橋森川家の「花若」がお仙に扮して来ると聞きつけた群衆が押し寄せたためです。ともあれ、晴信會の人集めの目論見は成功します。

大円寺笠森稲荷
大円寺笠森稲荷の門。
除幕式
碑に花を手向ける花若。

団子を持つ笠森お仙

十八歳の花若の衣装は水色の地に銀泥で帆船、帯は白地に金の露草。ともに池田輝方が手書きしたもの。帯を男結びにし、白い鼻緒の黒ゲタをカランカランと鳴らして現れると、その粋さ具合に本物のお仙が現れたかと一同、感嘆の声を上げます。

晴信會

翌日から京橋の高島屋で鈴木晴信百五十回忌記念展覧会を開催。明和のアイドルプロデュサー鈴木春信同様に晴信會のイベントも大成功を収めました。

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