戦前の東京への修学旅行といえば、帝都銅像巡り。靖国神社の大村益次郎像、上野公園の西郷隆盛像、皇居前広場の大楠公そして、神田須田町万世橋駅前の広瀬中佐・杉野兵曹長像が定番のコースでした。

帝都・東京初めての銅像は、明治二十六年(1893年)大村益次郎像でイタリア留学で彫刻を学んだ大熊氏広作。二番目が明治三十年(1897年)の西郷隆盛像で高村光雲・後藤貞行コンビの作。三番目が明治三十三年(1900年)同じく高村光雲・後藤貞行コンビで大楠公・楠木正成像です。

これらの銅像は武器製造に於ける技術向上を目的としていて陸軍の砲兵工廠や海軍工廠で制作されます。以後、明治政府の元勲、軍人らの功績を顕彰する像が100点以上制作され銅像ブームがおこりますが、和気清麻呂像を最後に、銅像は新たに制作されなくなります。銅像どころではない戦争が始まったからです……。

銅像も出陣
太平洋戦争が激化し、明治の元勲をはじめとして、忠犬ハチ公像でさえも出陣して行きます。

昭和十六年(1941年)に交付された金属類回収令によって、数々の銅像は強制譲渡され、その多くは兵器に姿を変えて戦場に散ってゆきます。
戦後の新たな思想殲滅戦争
やがて終戦。日本は連合国側から一方的に軍国思想の殲滅戦争を仕掛けられます。GHQ民間情報教育局(CIE)の美術・記念碑課が指揮を執り、昭和二十一年(1946年)二月「軍国的、超国家的イデオロギー像、記念碑の廃棄」を指示する覚書を交付します。これにリストアップされた銅像群は戦時下のNHKラジオの台本から忠君愛国の英雄とされた銅像の登場回数を元にするという粗っぽい手法で集計。戦意を高揚、軍国主義を増長したとして東京四大銅像もリストに挙げられ、撤去を命令されます。

東京都の静かなレジスタンス
GHQの無理難題を受けて、東京都は、昭和二十二年(1947年)一月「忠霊塔忠魂碑等撤去審査委員会(会長に東京都次長・伊藤清、委員には加藤シヅエ、市川房枝、今辻二郎、朝倉文夫ら当代を代表する文化人、芸術家のそうそうたる面々)」を発足させ審査を開始し、GHQに抵抗を試みます。

東京の美術界最大のピンチ!まず委員会は「東京都所有地以外に建つものを除外」とします。これにより、宮内庁管理の皇居前広場に建つ日本を代表する芸術大作の大楠公は除外されます。
次に「日本国内の戦いに関する英雄像は除外する」「軍装を身につけていない軍人像は除外する」との除外策を立案してGHQと対峙します。上野戦争で幕府と戦った大村益次郎像、浴衣姿で犬を連れて狩にでる西郷隆盛像が救出され、日本美術史を彩る三大彫刻は残ることとなり、東京都のレジスタンスは功を奏します。

しかしながら、以下の銅像、記念碑の撤去を決定します。
●軍艦行進曲記念碑(日比谷公園) ●広瀬武夫中佐像(神田須田町) ●常盤丸遭難記念碑(靖国神社境内) ●佐渡丸遭難記念碑(芝公園) 旅順白襷決死隊忠魂塔(代々木公園) ●東郷元帥像、東郷坂記念碑(東郷記念公園) ●尼港殉難之碑、シベリア出兵田中支隊忠魂碑(靖国神社附属地)
このリストをみるとパールハーバーを連想させる軍艦行進曲記念碑以外は日露戦争関連……。
戦後の混乱期で確かな資料が残っていませんが、どうやらGHQはパールハーバー以外の歴史的銅像にはそれほど固執していなくて、ソビエト連邦の消したい過去を忖度して決定したように想像できます。

東京四大銅像の一つと謳われ、修学旅行の定番だった日露戦争の軍神・広瀬中佐像が撤去リストに入り、委員会も抵抗しなかった理由は、軍服の軍神というだけでなく、この記事をみると……。

神田須田町という交通の要衝のど真ん中に鎮座していて、震災復興の妨げになっていたようです(背後に万世橋駅、正面に地下鉄乗り場)。この記事では神田橋公園に移転が決定したと伝えていて(開戦で移転は中止)、東京都としても都市計画の邪魔だったようで、GHQの要請と都の計画が一致。軍国主義を代表する軍神は倒され鋳潰されて鍋釜の材料となったと言われています。


大楠公、大村益次郎、西郷さんの芸術的な東京三大銅像が今も健在なのは、東京都の地道なレジスタンスがあったお陰です。