鎌倉街道の関所があったという宿坂を登り、大きな目白通りの向こう側に細い古鎌倉街道は続きます。
この細さは、この道が人馬のためのものであったことを物語り、また古い街道は緩く曲がり決して真直ぐには伸びてはいない。
そんなことを思いながら進むと、都電の踏切という懐かしい光景に遭遇します。
都電と踏切のある風景
昨今、鉄道と交差する車道は立体交差になり、踏切は少なくなりました。
この都電荒川線は大通りが出来たせいか、この道に入ってくる車は少なく、都電の本数もまばらで、昔よく言った「開かずの踏切」では決してありません。
そして、のんびりと穏やかな情景が展開されます。
様々なカラーリングの都電が走り、鉄ちゃん、鉄子には嬉しいショットが撮れます。
踏切を渡り進むとY字路にあたります。
古鎌倉街道は鬼子母神の参道の方へと続きます。本来の古鎌倉街道は法明寺の脇を通るルート。
雑司ヶ谷鬼子母神の成立は室町時代と考えられ、その頃から街道が参道になっています。
この参道は江戸時代、お土産屋、料亭(料理屋)で賑わったところです。
ちょうどY字路の角には、かつて、料亭「茗荷屋」があり江戸料理屋番付に載るほどの人気料理屋でした。
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豊島区の資料によると、茗荷屋をはじめ、蝶屋、耕向亭、武蔵屋、萬屋判助、松屋、伊勢屋、常陸屋、福山、桝屋などが軒を並べ、文化文政期には文人墨客が酒宴や書画の会を楽しむ場となりました。
金剛寺坂坂上に住んだ当代一の文人、大田南畝も通っていたようです。幕末になると、彰義隊がその結成過程において茗荷屋で会合を持ったという話もあります。
料理屋番付の上位にある「王子の扇屋」は、幕末に、フェリーチェ・ベアト(1832年 – 1909年)が、流れる音無川と一緒に撮った古写真が残っており、「雑司ヶ谷の茗荷屋」もこのような佇まいだったかと想像します。

いくつもあった川口屋

この豊島区の資料によると「川口屋」が三軒あります。「川口屋あめや」と「川口屋だんごや」が二軒。
江戸名所図会にも鬼子母神境内に「あめや」が数件描かれ、「川口屋」が多いとわざわざ記されています。これはいったいなぜでしょうか?

正徳の頃(1711〜1716年)、丑之助なるものが鬼子母神境内で当時は高級品だった切り飴を売り出します。近くを流れ、豊かな農耕をもたらす弦巻川(つるまきがわ)を愛でて、屋号を「川口屋」とし、家紋は弦巻川の「つる」から採って「鶴の丸」。 この川口屋は、たいそう繁盛し、それにあやかり名代を借り、川口屋を名乗る店が続出したと。
どの川口屋の系列かはっきりしないと豊島区の資料では言っていますが、今も境内には1781年(安永10年)創業の「上川口屋」が残ります。
1781年でも古いと思っていましたが、そのルーツは1710年代とは驚きです。

この店舗は現在、駄菓子屋を営んでおり、日本一古い駄菓子屋として有名です。
ジブリの映画「おもひでぽろぽろ」の駄菓子屋のモデルになっています。
ジブリの駄菓子屋は、この上川口屋そのものと言って良いくらい似ていますが、私の思い出にある昭和の駄菓子屋とは、少し違うような気がします。
それもそのはず、この店舗は明治の造りで、関東大震災も戦災も乗り越えてきた建物です。
雑司ヶ谷鬼子母神
鬼子母神の由来は以下のように伝わっています。
鬼子母神のご本尊は室町時代の永禄4年(西暦1561年)、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神境内にある三角井戸)でお像を清め、東陽坊(後、法明寺に合併)という寺に納めたものです。 東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、ひそかにご尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。 その後、信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代の天正6年(1578年)『稲荷の森』と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に至っています。
星の井と云う三角井戸
鬼子母神ご本尊を清めた星の井とはどんなものだったのでしょうか?

江戸名所図絵にも鬼子母神のお像を清めた三角形の井戸が描かれています。清土鬼子母神に行ってみると、今も三角形の井戸があります。


清土(文京区目白台)は古代から古墳文化を持つ人々が住んだ地で、掘り出されたのは土偶か古墳の副葬品かもと、ロマンを感じつつ、想像してしまいます。(目白坂の謎の碑の項参照)
資料によると「稲荷の森」と呼ばれていた頃、鬼子母神のご本尊は境内の武芳稲荷に祀られていたようです。
江戸名所図会の「いなり」がそれで、今ではエクザイル風(鳥居が幾十にも重なる)の鳥居に彩られています。

現在のお堂は、本殿が寛文4年(1664年)徳川4代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常公の息女で、安芸藩主浅野家に嫁した自昌院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張されています。
江戸の物見遊山の地
江戸の中心地を千代田区、文京区、中央区とすると、雑司ヶ谷鬼子母神は郊外にあたり、日帰りの物見遊山(Oneday trip、リクエーション、ハイキング)が盛んだだったようです。
江戸切絵図を見ても緑の深いエリアで、雑司ヶ谷八景なる名所もあったそうです。
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日帰り旅行、ハイキングが盛んだったのは、鬼子母神のご利益、風光明媚だったことがあります。観光地として有名になると、次に、ご当地のお土産が生まれます。
鬼子母神名物
鬼子母神は殊に子宝、子育てにご利益があったので、お土産も子供のためのおもちゃ系。中でも有名なのが、薄(すすき)みみずく。ジブリの駄菓子屋にも描かれています。
今は途絶えてしまいましたが風車が有名だったようで江戸名所図会に描かれています。

江戸名所図絵では、みみずくのほかに「風車」「角兵衛獅子」が有名と云っています。「角兵衛獅子」とはどのようなものなのかと思い探すと、参道の観光案内所で見ることができました。


都会に残る古鎌倉街道の終点
江戸名所図会を見てもわかるように参道はここで直角に曲がり、鬼子母神へと続きます。

本来の鎌倉街道は参道を真っ直ぐ伸び法明寺の脇を通り、池袋から王子へと続いていたとされます。
この先の池袋は昔は池袋村でしたが今では渋谷、新宿に並ぶ大都会。古道の痕跡はほとんど残っていません。
高田の馬場から鬼子母神は、都電荒川線同様、都会に古道が残った稀有なエリアです。都電も古鎌倉街道も長く残って欲しいものです。(完)
※このシリーズの古鎌倉街道の道筋は寛延4年(1751年)、酒井忠昌により著された「南向茶話」に寄ります。
❶ 頼朝伝説、堀部安兵衛の
鎌倉街道を行く1(新宿区編)
❷ 太田道灌、山吹の里の
鎌倉街道を行く2(豊島区前編)
❸ 鎌倉街道の関所があった
鎌倉街道を行く3 宿坂(豊島区後編)
❹ 江戸情緒の濃い鬼子母神
鎌倉街道をゆく4 雑司ヶ谷鬼子母神編

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