上野戦争ー残された弾痕(前編)からの続き
慶応四年(1868年)5月15日(新暦7月4日)午前3時、江戸城二重橋前の大下馬に集合した新政府軍は、道案内人を伴い、それぞれの配置へと向かいます。


広小路黒門前軍(地図A)
午前7時、広小路、忍川に架かる三橋を挟んでの激戦が始まります。広小路の松坂屋前(今も昔も松坂屋)に陣取る西郷さん率いる新政府軍と黒門を守る彰義隊は一進一退、最初のうちは彰義隊優勢に進展します。



山王台(現・西郷隆盛像のある高台)から繰り出すフランス山砲(小栗上野介の関口大砲製作所で製造)の正確無比な砲弾に手を焼きますが、それに対抗して、山王台正面の料理屋「雁鍋」の二階に四斤山砲を抱え上げ、応戦します。


やがて「雁鍋」は建物自体崩れ去りますが、装備で勝る新政府軍が黒門を突破。清水堂、屏風坂、車坂方面に突入していきます。


団子坂下軍(地図B)
片や、搦手(裏門)の団子坂下軍(地図B、長州兵主力)は折からの長雨で溢れた藍染川を挟んで彰義隊と対峙。

先鋒の長州兵が突撃!がしかし、銃声が聞こえません。長州の援護射撃部隊からも銃声はナシ。長州兵の面々は最新式のスナイドル銃の操作が分からずに孤立し、彰義隊の銃弾の雨あられにさらされます。危うし長州兵!
そこへジャブジャブと川へ飛び込んできたのが旧式の連発銃を持つ佐土原藩兵。佐土原藩は薩摩の支藩であり、歴戦の、維新戦争の強者です。ここはひとまず、前線を佐土原藩兵に任せて長州兵は退却します。
実はこのスナイドル銃、大村益次郎が上野戦争のために購入した最新銃です。がしかし、一丁に付き弾丸が50発しか付いておらずに、益次郎は弾丸が惜しいと言い、試射は一発のみ。
天才は銃の構造から理解するので、試射は一発で十分なのかもしれませんが、凡人には理解できません。益次郎の天才が悪いほうに作用したようです。
長州兵は加賀藩邸、心字池(現・東京大学内の三四郎池)にいる参謀の元へ走り銃の操作を教えてもらいます。長州兵はこの時ほど益次郎の天才を呪ったことはないでしょう。

銃の操作がわかった長州兵の働きは凄まじく、鬼神のように突撃、三崎坂(さんさき坂)を駆け上り谷中天王寺へと迫ります。

黒門前軍ばかりクローズアップされがちですが、こちらにも多数弾痕が残っています。





黒門前の激戦
ついに上野のお山の正面入口である黒門を突破した新政府軍は清水堂などで白兵戦を繰り広げます。




午後一時、江戸城富士見櫓で双眼鏡片手の益次郎に黒門突破の報が届きます。「そろそろですな」と益次郎の一言。
やがて、本郷の富山藩邸(現・東京大学付属病院)、水戸藩邸(現・池之端)から砲声が轟きます。

このアームストロング砲弾(左)を見ると旋条痕が残っているので不発弾か、もしくは火薬を入れないで撃ったものです。四斤山砲砲弾(右)は胴体部分のリベットが旋条に入り、横回転を加える設計です。

アームストロング砲は飛距離・命中精度・連射性能、その破壊力の凄まじさに、佐賀藩公、鍋島閑叟が「同民族の争いに使ってはならない」と江戸佐賀藩屋敷に封印してあったものです。益次郎も五発以上(計十発)は撃つな、と言い聞かせていたもの。

最初のうちは、砲弾が不忍池に落下。ここまでは届くまいとタカをくくっていた彰義隊ですが、それは、屏風坂、車坂方面に攻め込んでいた自軍への砲撃を避け、慎重に距離を計っていたためでした。

やがて砲弾は清水堂を飛び越し、寛永寺本坊(現・国立博物館)まで達します。ついに上野のお山は落ち、益次郎が用意していた北東方面に彰義隊は敗走していきます。
燃えている上野のお山を見て江戸っ子たちは泣いたと云います。




焼けずに残った旧寛永寺本坊山門には多くの銃弾痕と飛散した砲弾痕が残ります。

山王台の彰義隊兵士を荼毘に付した場所には彰義隊の墓(山岡鉄舟揮毫)が、黒門のあった位置には黒門を模した壁泉があります。


彰義隊墓石の前にお前立ちのように立つ標石は新政府軍の目をはばかって地中に埋めていたと云うもの。
発掘され供養されています。
オリジナルの黒門は明治四〇年(1907年)、荒川区の円通寺に移築され、数々の弾痕が激戦を今に伝えています。

急速な軍制改革を進める大村益次郎もまた、元長州藩士の反感をかい、明治二年(1869年)暗殺により倒れます。遺言は陸軍病院の必要性を説いたり、四斤山砲をたくさん作って置けという内容で最後まで合理主義を貫いた日本陸軍の祖でした。
最後の将軍、徳川慶喜公は明治の世を生きぬき、大正二年(1913年)没します。
激戦の地であった谷中霊園に夫人とともに眠っています。

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