江戸城桜田門から伸びる桜田通りは古い道。日本武尊が設けたと云う霞ヶ関跡があり、律令国家成立の頃の官道が元になったこの通りは国道一号線を拝名しています。
官道は都からなるべく早く命令が地方に伝わるようにと直線を基調としています。そのせいか、桜田通りはアップダウンが多く、少し曲がって迂回すれば平坦なのにと思うこともしばしば。
いやいや、平坦なところは江戸以降の日比谷入江の埋立地で、往古はこの道がメインストリート、奥州街道、中原街道、鎌倉往還とかぶります。

この日比谷入江の埋立には何が利用されたのでしょうか……?

城跡です。
江戸切絵図の芝口南西久保愛宕山下図を見ると、城山、土取バト云、熊谷橋とあり、これらは城跡と関係があります。
国道一号線沿いの城跡・西久保城
平家物語「敦盛最期」や信長が桶狭間出陣前に舞ったと云う謡曲「敦盛」でおなじみ、源氏の武将・熊谷次郎直実築城と伝わる西久保城。旧住所は西久保城山町。現住所は虎ノ門三・四丁目ですが城山という地名はビル名に残ります。

自分の息子ほどの歳の平敦盛を涙ながらに討ち、そののち出家したという熊谷次郎直実。
桜田通りにあった地下水道にフタをする石橋は彼に因んで熊谷橋と呼ばれます。
前支配者の城は、のちの支配者によって破壊されるか拡張され、もとの姿を留めません。これを日本文学では栄枯盛衰などと言いますが、今風に言えばスクラップアンドビルド。
江戸時代、古い城跡は切り崩され、そこは土取り場となって日比谷入江の埋立に利用されます。
熊谷次郎直実伝説は本当か?
地元では、熊谷次郎直実の城山との言い伝えがありますが……?。
この話にはすでに江戸時代から疑問符がつき、江戸名所図会の解説には、それは「誤りなり」とダメを出し「菊岡沾涼曰く、此所は昔、麻布殿の出丸の地なりしと云う」と書いています。
江戸っ子は話を盛るのも作るのも好きです。他に領地を持っており、出家した熊谷次郎直実がここに領地を授かり築城することはあろうはずもなく。
滅びの美学の代表「平家物語」にお題を得、崩れてゆく城山に熊谷次郎直実を被らせ、哀れを感じたのでしょう。

明治初期の地図では削られた跡、何となく城の面影がありますが、いまでは城は跡形もないのだけれども、北側の江戸見坂の急峻さにかつての城山を感じます。
江戸見坂
江戸時代には溜池、江戸城から江戸湾まで江戸の町が一望できる名所とうたわれた江戸見坂は坂道番付でも人気上位の前頭筆頭。

いまではビルに囲まれ「江戸見」は不可能で、急な坂(最大斜度12度)は嫌われる始末。坂にも栄枯盛衰を感じます。

熊谷橋
しかしながら、熊谷橋は、明治半ばの桜田通り拡張に伴い、西久保八幡神社の一の鳥居前に移設され残ります。数少ない歴史の証言者、伝説の熊谷次郎直実の名残りです。

この西久保八幡神社、落ち着いた地味な佇まいですが、貝塚が出たり、明治初期の測量遺産「几号水準点」があったりと、マニアックな歴史好きにはたまらない場所ですが、見るからに急峻な地形で、太田道灌が築いた砦ではないかと云われています。
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