東京の北区田端は武蔵野台地東端に沿った崖の上にあり、JR在来線はその崖下を、新幹線が高架を走ります。
風通しの良い高台で、なおかつ東京帝国大学に近い、若き日の芥川龍之介にとっては好都合な立地です。
芥川一家は、洪水が多く難渋した本所小泉町(現・墨田区両国)から、いったんは新宿に移り、大正二年(1913年)十一月、北豊島郡滝野川町字田端435番地に移り住みます。
以後、半ば狂気に促され、自殺願望を成就するかのような、それが必然であるかのような悲壮なる最期を迎えるまで、龍之介はここ田端に居を構えています。
芥川龍之介書簡の地図「僕の家」
龍之介が友人に宛てた手紙に自宅までの地図を描いています。
曲がりくねった与楽寺坂(青矢印)を上った十字路を左に折れると「僕の家」芥川家です。


しかしながら、友人は動坂下方面から来るらしく、わかりやすいようにと藍染川(田端あたりでは谷田川と名を変える)にかかる谷田橋、東覚寺坂経由で道順をていねいに描いていて友人への心配りがうかがえます。



与楽寺坂と幽霊坂


かねてより田端にも幽霊坂があると聞き、与楽寺の北側を登る与楽寺坂の別名だと勘ぐっていた私は、坂下に向かってクネクネとカーブするその坂の形状を見て、ゴミ溜め隠しの江戸の幽霊坂の特徴をよく表しているなあと勝手な思い込みをします。

しかし、よくよく調べると幽霊坂は与楽寺の南側の坂だというのです。なぜ、この坂を、人々は幽霊坂と呼んだのでしょうか?

古地図を見ると……

幽霊坂坂下南側に、東京脳病院、今の精神科医院です。


画家の石井柏亭はこう回想しています。
美術学校へ行ってから十月ごろ風景写生の競技に八号の油書(油絵)を描いたが、それは何でも田端脳病院の上あたりであったらう。描いている中に狂人の声が聞こえたりした。
坂上で写生をしていると、坂下から患者の叫び声が……。これが幽霊坂と呼ばれた所以です。
青山脳病院
昭和二年(1927年)六月二日朝。龍之介は友人の小説家・広津和郎と共に、当代一の歌人・齋藤茂吉が院長を務める青山脳病院を訪れます。
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訪問の目的は発狂した知人、小説家・宇野浩二の往診を乞うためでした。

龍之介自身も当時、神経衰弱が進行していて、実母が精神病患者だったものですから、狂人の遺伝があるのではないかと、茂吉院長の診察を受け、睡眠薬をもらっています。
外来患者の診断を終えた茂吉院長と二人は、待たせておいたタクシーで宇野邸に向かいます。宇野は「かえって調子が良い、夜などは二時間も寝れば充分だ」と豪語しますが、類い稀なる文学者であり、名医でもある茂吉のこと、彼の躁鬱病を見逃しませんでした。
龍之介は青山脳病院を訪ねた記録はありますが、芥川家近く、幽霊坂下の東京脳病院に通った記録はありません。不思議です。なぜでしょうか?。
主治医・下島勲

芥川家から東京脳病院までは400mほどですが、それよりも近くに親友であり、書家、俳人、日清日露戦争で陸軍一等軍医として活躍した下島勲が開業し、楽天堂病院という医院を営んでいます。旧住所は田端348(現1-15)番地 。
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龍之介は下島先生についてこう書いています。
下島先生はお医者なり。僕の一家は常に先生の御厄介になる。また、空谷山人(くうこくさんじん)と号し、乞食俳人井月の句を集めたる井月句集の編者なり。僕とは親子ほど違ふ年なれども、老来トルストイでも何でも読み、論戦に勇なるは敬服すべし。僕の書画を愛する心は先生に負ふ所少からず。なほついでに吹聴すれば、先生は時々夢の中に化けものなどに追ひかけられても、逃げたことは一度もなきよし。先生の胆恐らくは駝鳥の卵よりも大ならんやか。
どうやら龍之介一家は下島先生のお世話になっていたようです。
下島先生も龍之介の半端ない天才を評し、逸話を語っています。
芥川氏が京都大阪に行くので本を五冊ほど持たせると、列車の中で読了してしまい、京都に着いてまた、友人から本を借りたと。また、名だたる俳人の全ての句を年次別、制作順に記憶していて、諳んじることができたとも。
二日間徹夜して作品を書き終えると、さすがに体は疲労困憊しているけれども、脳神経自体はさほど疲れてはいない様だったとも語っています。
とにもかくにも並大抵の天才ではなく、バケモノのような天才なのです。
芥川氏終焉の日
昭和二年(1927年)七月二十四日、雨の未明、下島先生は知らせを受け、いち早く芥川家に駆けつけますが、時すでに遅し……。
斎藤茂吉にもらった睡眠薬を仰いで、自宅書斎で永遠の眠りにつきます。享年三十五。


「芥川氏のことについては、書きたいこともずいぶんあるやうな気もするが、今は雑用も多く、それに心神(心と神経)も疲労している」としながらも、句をいくつか詠んでいます。
芥川氏終焉の日 駆けつけて先づ心臓を聴かんとすれば 懐ろの 手紙はねとぶ 浴衣かな 絶望 カンフルの 注射の効ひも なかりけり 検体を終へて 安らけき 永久の眠りよ 草の雨 小穴隆一君、枕辺に画架を据す(ゆす) 雨暗澹(あんたん) 死顔描く 昼の灯や 夏の雨 その夜 まぼろしを 逐をとしもなく 明け易し 昭和二年八月三日
聴診器を胸にあてようとすると、懐からたくさんの遺書が出てきて、カンフル剤を射っても効果なし。尽くす手もなし。
小穴隆一君とは龍之介のもう一人の親友で画家です。
息子たちに宛てた遺書には「小穴隆一を父と思へ。従つて小穴の教訓に従ふべし」と書いているほどの親友です。
彼は遺言により、龍之介のデスマスクを描いています。
下島先生といい、小穴隆一といい、何も説明が要らないほどの悲哀に満ちています。もしかすると、龍之介は天国で幸せだったのかもしれません。
昭和二十年(1945年)四月の空襲で田端は焼け野原になります。東京脳病院も楽天堂病院も芥川家も全てすべて焼き尽くされますが、運よく芥川家の映像が残っています。改造社刊「近代日本文学全集」の宣伝のために死の数日前に撮った映像です。
確かに目が逝ってしまっているように思えますが、子供と書斎前で木登りをする、どこか清々しく、滑稽に思える映像です。
家も木登りの木も焼けてしまい、芥川家のあった場所には説明板が建つだけですが、JR田端駅北口前、田端文士村記念館のロビーに芥川家のジオラマが展示されています。



せめて、この木だけでも残っていてくれたらと思うのですが、龍之介が幼少の頃、木登りをしたという大きなイチョウの木が両国回向院に残り、時の流れを語っています。

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