ご維新後、新政府は近代国家としての体制づくりに躍起になっています……とはいうものの、明治の役人たちも、つい最近までチョンマゲをして刀を持って市中を歩いていた人々。考えた首都中枢の改造案が……

千代田城の天守台の前、本丸御殿のあったところに官庁を集中させる計画。これは誰が見ても江戸幕府の封建制から抜け出ていないもので、早ばやと立ち消えます。

ジョサイア・コンドル案
明治十八年(1885年)一月、井上馨外務卿は欧化政策を進めています。鹿鳴館を設計したジョサイア・コンドルは井上に尻を叩かれ官庁集中計画を立案します。
この頃すでに、鹿鳴館、作戦参謀本部、外務省は竣工しています。



ジョサイア・コンドルは千代田城桜田門外の霞ヶ関に官庁街案を立案します。


これにも納得のいかない明治新政府はドイツから高名な建築家ヴィルヘルム・ベックマンを招聘。大規模な官庁集中計画案を作成します。
ヴィルヘルム・ベックマン案

ベックマンは築地本願寺の屋根に登り、中心線を定めて、都市案を考察します。国会の位置、首相官邸が日枝神社の隣にあるようにこの案が今に残るところもありますが……西洋風庭園、展示会場を持つ壮大な帝都改造案に政府の財政難がのしかかり、反対意見も続出。

やがて井上馨が条約改正に失敗し、外務大臣を辞任。ベックマンの後を継いだヘルマン・エンデは規模の縮小を余儀なくされ、実際に竣工したのは、司法省、大審院(最高裁判所)、海軍省だけでした。
、海軍省.jpg?resize=474%2C298&ssl=1)
今日まで残った明治の遺構

エンデの設計した司法省本館は関東大震災時に崩壊することなく軽微な被害ですみます。昭和二十年(1945年)の空襲でスレート屋根が焼け落ちるも赤レンガ壁は残り、戦後、改修され法務省本館として使用されます。

平成六年(1994年)に、竣工当時のヘルマン・エンデの設計、河合浩蔵現場監督の姿を再現、法務省赤れんが棟として甦ります。
明治二十八年(1895年)竣工されたこの建物は数少ない明治が香る官庁の遺構として国の重要文化財に指定されています。