東京羽田国際空港。かつてここで陸上の世界記録が生まれたなどとは、誰も信じることが出来ないでしょう。
羽田競技場
明治四十四(1911年)嘉納治五郎は大日本体育協会を組織し、第5回近代オリンピック・ストックホルム大会へ、初参加となる日本選手団を送り込もうと画策します。スポーツに対する認識が低かった時代。競技ルールなど知らない日本人が手っ取り早く出来るのは駆けっこ競争ぐらいなものと、参加種目は陸上一本に絞られます。ところが、当時の日本には陸上競技用のトラックすらありません。
そこで嘉納治五郎は多摩川河口の埋め立てを進めている京浜電気鉄道(京浜急行の前身)に掛け合います。
京浜電気鉄道
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埋立地に潮干狩り場、競馬場、鴨猟場、野球場、自転車練習場などを作り、穴守稲荷という観光地、東京湾の風光明媚な海辺リゾートを開発している京浜電気鉄道は引込線に「あなもり」駅を開業して間もない頃。嘉納治五郎の相談をうけ、陸上競技場の建設に着手します。



自転車練習場の一角に四百メートルトラックと簡易なスタンドを作り、そこを羽田競技場、オリンピック予選会会場とします。
そして、日本全国から逸材を発掘しようと全国紙に広告をうち参加者を募ります。日本初、前代未聞のマラソン競技も開催されるという新聞広告を見て、金栗四三は、「自分の力を試してみたい……」そう思い、徒歩部の仲間に相談すると「金栗君ならやれるよ」と励まされ、橋本三郎・野口源三郎とともに出場を決意します。
明治四十四年(1911年)十一月十九日、羽田競技場を会場とするマラソン競技のオリンピック予選会が開催されます。
大塚窪町の寄宿舎を朝早く出た金栗たちは、京浜電気鉄道という交通の便はあるものの道に迷ってしまい、会場に着いたのはスタートの一時間前。すぐに風呂敷包みから食パンを取り出しかぶりつき、生タマゴを飲み、スクールカラーであるお揃いの赤紫色の帽子を深くかぶり、運動着に着替えて準備します。
マラソン競技の出場は十九名。当時の学生界において健脚で知れたツワモノ揃い。しかしながら四十キロ以上走ったことがあるものは皆無。金栗とて二十四キロが最高です。加えて雨が降り出してくる悪条件です。
マラソンコース
競技場を出て羽田村をぬけ、多摩川の土手を西へ。六郷橋を渡り東海道を南下、東神奈川の折り返し点までを往復する四十キロ。
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十二時二十分、雨の中をスタート。トラックを三周後、羽田の街へ飛び出してゆきます。

金栗たち東京高等師範学校トリオは最後方から様子を見ます。まず飛び出したのは小樽水産の佐々木政清、次に慶応の井出伊吉。
日本では誰も走ったことがない四十キロ。五キロを過ぎたころから一人二人と落伍者が出てきます。が、金栗は徐々にペースアップ、三位まで順位を上げます。
東神奈川で佐々木と井出が折り返してきます。二人とも疲労困憊、必死の形相。折り返してきた二人とすれ違う金栗には、前半抑えた分、まだ余力があります。
が、しかし、ここでアクシデントが発生。足に血豆ができ、さらに足袋が破れて、雨でぬかるんだ泥がまとわりついてきます。
当時、舗装された道路は明治四十年(1907年)になって天然アスファルトを敷きつめた日本橋通りぐらいなもの。東海道とて土をつき固めただけです。

また、舶来の運動靴を履いてるのはほんの一部の裕福なボンボンだけで、ほとんどの選手はワラジ、草履か足袋を履いています。
ラストスパート
金栗は足袋を脱ぎ捨てて、裸足で走ります。これが幸いしたのか、足は軽くなり、水溜りで血豆が冷え、痛みが和らいでゆきます。
最後のスパート。まず慶応の井出を抜き、小樽水産の佐々木と肩をぶつけあうほどのデットヒートをくりひろげます。競技場に入る直前に佐々木を抜き去り、独走態勢を築きます。
最後にトラックを一周する雨の中、恩師・嘉納治五郎は山高帽を大きく振って歓声をあげています。ゴール時の大騒ぎに、いったい何が起きたのか、金栗には全く理解できなかったのですが、なによりも恩師に抱きかかえられているだけで幸せでした。


ゴール時の騒ぎとは
金栗の記録はなんと世界記録を二十七分も上回る二時間三十二分四十五秒。二着の佐々木、三着の井出も世界記録を上回るもの。

当時、マラソンは二十五マイル(四十キロ)前後という漠然とした規定があるだけで大会によって距離が違うとはいえ、これは立派な記録です。
主催者側も想像すらしなかった好結果に「世界と勝負して勝てるかもしれない」という期待が皆から溢れ出てきます。
結局、完走出来たのは東京高等師範学校トリオの橋本、野口を含め六名のみ。
日本マラソン界に壮絶なる最初の一ページを刻みます。

翌日、金栗のダメージは大きなものでしたが、真面目に授業を受け、放課後、大塚仲町の播磨屋足袋店を訪ねます。

