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「沈黙 -サイレンス-」のモデル、ジュゼッペ・キアラの供養碑がなぜ此処に。

幕末の匂いが濃かった三百坂、伝通院で「清河八郎」のお墓を探している時に目にしたこの案内板。

伝通院墓地案内図

鎖国をしていた幕府直轄の、そして、家康公生母の菩提寺、葵の御紋が眩しい「伝通院」に?。

伝通院

なぜ、宣教師の、いわゆる「転びバテレン」のジョゼフ岡本三右衛門の供養碑があるのでしょうか。
驚きとともに理解できない不思議さを感じるのでした。

 「陽だまりの樹」の三百坂を参照

ジョゼフ岡本三右衛門の供養碑
宣教師ジョゼフ岡本三右衛門神父の供養碑。

ジュゼッペ・キアラ神父、岡本三右衛門の数奇な生涯

宣教師ジュゼッペ・キアラ(Giuseppe Chiara)またはカウロ(日本名、岡本三右衛門)は、遠藤周作、狐狸庵先生の小説「沈黙」のモデルとされ、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙 -サイレンス-」でも知られています。映画の中ではロドリゴ司祭、岡田三右衛門と呼ばれています。

ジュゼッペ・キアラ神父は、1602年、シチリア島生まれのイエズス会宣教師。寛永二十年(1643年)、筑前国で捕らえられます。

同年、江戸に護送され、一旦は伝馬町の牢屋敷に。その後、宗門改奉行の井上政重邸(神田一ツ橋辺り、地図参照)に預けられ、井上政重下屋敷改築後の小石川、切支丹屋敷に入牢させられます。

切支丹屋敷想像図
1600年代の切支丹屋敷想像図。

切支丹屋敷幽閉者第一号でした。

古地図:元禄年間(1688-1703年)江戸大絵図より、神田一ツ橋の井上政重邸と小石川の切支丹屋敷、切支丹奉行組。
古地図:元禄年間(1688-1703年)江戸大絵図より、神田一ツ橋の井上政重邸と小石川の切支丹屋敷切支丹奉行組Aは平川門、B竹橋と非常に江戸城に近い。C今の春日通り茗荷谷駅付近(クリックで拡大)。

ジュゼッペ・キアラ神父は、すでに転びバテレンとなっていたクリストヴァン・フェレイラ神父(日本名、沢野忠庵)が協力する幕府の吟味(一説には三代将軍家光公も直接吟味)と、想像を絶する拷問を受け、浄土宗に「転び」ます。

ちょうどその頃、伝馬町で斬罪となった「岡本三右衛門」という下級武士の姓名、扶持がそのまま与えらます。
さらに、斬罪となった伊豆国三崎西町の某という亭主の後家婦人を娶ることになります。

彼は、隠れキリシタンの吟味に協力し、比較的優遇されましたが、切支丹屋敷にいること三十九年。貞享二年(1685年)没し、伝通院の北、無量院に葬られます。
齢84歳の高齢だったと云われています。

この高齢のジュゼッペ・キアラ神父を切支丹屋敷で世話をしていたのが長助とその妻、はる。彼らは次の入牢者であるジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチ神父から洗礼を受けキリシタンとなります。

ジュゼッペ・キアラ神父が告白したキリシタンの伝道規律、キリスト教の真髄を述べた「宗門之書物」は、のちに新井白石が読み感動し、宣教師シドッチ神父を吟味する際、多いに参考にしたと云います。宝永六年(1709年)のことです。

文京区公認キリシタン坂の怪を参照

切支丹屋敷と宣教師シドッチ神父を参照

岡本三右衛門が葬られた無量院

古地図:嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図より伝通院裏(北側)の無量院(クリックで拡大)。

無量院は江戸の頃、大いに栄え、江戸名所図会にも紹介されています。

江戸名所図会より無量院
江戸名所図会より「祥雲寺と無量院」。古地図、江戸名所図会とも、今は暗渠の千川が描かれています(クリックで拡大)。

戒名入専浄眞信士伝通院の北に位置していた無量院は廃寺となり、昭和52年(1977年)地元有志の方々が、かつての無量院に近い伝通院に、本来の墓碑(戒名、入専浄眞信士)に似せた新しい供養碑を建立したようです。

岡本三右衛門供養碑

碑面には、イタリア大使による「安らかに眠りたまへ」の文字が刻まれています。

千姫の墓
千姫の墓

本当に無量院に近い伝通院境内北側となると「千姫の墓」の裏側になってしまうので、これではちょっとということで、西側の隅にあるのでしょうか。

だが、話はここで終わりません。

戒名「入専浄眞信士」のキアラ墓碑
戒名「入専浄眞信士」のキアラの墓碑。

ジュゼッペ・キアラ神父の生涯同様、本来の墓碑も数奇な道を歩いて行くことになります。

行方不明になった墓碑

無量院の墓地は開国後の明治初期、そこにあり、ジュゼッペ・キアラ神父の古い墓碑もそこにあったはずです。
明治42年(1909年)寺の都合か、陸軍の都合かで、墓地は雑司ヶ谷霊園に移されます。

左:明治9-17年(1876-84年)5千分の1右:東京図測量原図より明治41-42年1万分の1測図
左:明治9-17年(1876-84年)5千分の1右:東京図測量原図より明治41-42年1万分の1測図(クリックで拡大)。

そして、太平洋戦争のさなか、昭和18年(1943年)、墓碑は、雑司ヶ谷霊園から忽然と姿を消します。

無量院住職、竹中尭献(ぎょうゆう)氏が、四方八方行くえを探すと、その存在が確認されます。

なんと、カトリック信者二人が、目白警察署員立会いのもと、リヤカーに乗せ、教会へ避難させていたというのです。

双方、宗教者ということで和解が成立。今は調布市のカトリック教会サレジオ修道院の構内にあり、手厚く葬られています。

調布サレジオ修道院内の岡本三右衛門墓碑。
調布サレジオ修道院内の岡本三右衛門墓碑。宣教師の帽子の形をしています。

無量院は戦災で焼けてしまい廃寺となりますが、カトリックから浄土宗そしてまたカトリックへと「転び転び」し、大切にされています。元の鞘に収まった感のあるお話です。

それぞれの宗教については語る立場にありませんが、人間は宗教から少しばかり離れた方が良いのかもしれません。
〇〇教徒は入国拒否などという不条理なことが起きないように。

人を救うのは家族・友人はもちろん、iPS細胞だったり、介護ロボットだったりする社会がすぐそこまで来ています。

宇宙の始まりは、インフレーション、ビックバン、自然の法則に従っただけで、その時、神は必要だったのでしょうか?と、故ホーキング博士は語りかけていました。

宗教で救われることもあるでしょうが、宗教で争いが起きるのも事実です。
私たちは歴史から多くのことを学ばなければいけません。

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