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虎ノ御門と邸内社・金毘羅宮

港区の虎ノ門という地名は外堀にあった江戸城の城門、虎ノ御門に由来します。

文久二年(1862年)ご府内往還其外沿革図書より
文久二年(1862年)ご府内往還其外沿革図書より(クリックで拡大)。
古写真:虎ノ御門
古写真:虎ノ御門。

明治六年(1873年)虎ノ御門は撤去され、この一帯は公使館や工部省の用地となります。

明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より
明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より(クリックで拡大)。
ロシア公使館と虎ノ御門。
工部大学校
工部大学校。

外堀は埋め立てられ、虎ノ御門があったところは外堀通りの虎ノ門交差点となります。

大正十年(1921年)東京市芝区図より
大正十年(1921年)東京市芝区図より(クリックで拡大)。
大正元年の旧虎の御門外。
大正元年(1912年)の虎の御門外。
現・虎ノ門交差点

溜池の落口「どんどん」、葵坂、虎ノ御門も消滅して、江戸の面影は微塵もなくなり首都東京中枢の街角となりますが、虎ノ門金比羅宮だけは今日も残り江戸の風情を伝えています。

虎ノ門の金毘羅宮

虎ノ門金比羅宮

大名屋敷が建ち並ぶ江戸では、江戸特有の寺社である邸内社文化が生まれます。

江戸名勝図絵「虎ノ門」二代広重画。
江戸名勝図絵「虎ノ門」二代広重画。

虎ノ門の金比羅宮は丸亀藩主・京極氏の屋敷内にある社。毎月の十日のみ町人の参拝が許され、その日だけは入ったことがない別世界、屋敷門から大名屋敷に入れるというので人々がおおぜい押し寄せます。

金比羅の入口
人が溢れる金比羅様の入口。

その屋敷の神様であるから、氏子を持ちません。よって氏子に頼らず、神社は一般町人有志の寄進で成り立ちます。浮世絵に描かれた四神(東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武)のある銅鳥居も文化四年(1807年)に町人たちが寄進したもの。

鳥居の柱には寄進した町人の名の数々。町人に愛されたことがわかります。

虎の門外あふひ坂

あひふ坂(葵坂)と題している絵にも金毘羅宮が盛り込まれています。

名所江戸百景「虎の門外あふひ坂」初代広重画
名所江戸百景「虎の門外あふひ坂」初代広重画。

虎ノ門の名所である「どんどん」と葵坂の前に夜半、提灯を持つ半裸の男が二人。蕎麦の屋台、野良犬も江戸名物。半裸の男の向かう先は?
その頃の江戸っ子が見れば一目で金毘羅様へ水垢離へゆく職人だとわかる構成になっています。

金比羅様は殖産興業、大漁満足、五穀豊穣、招福除災に加えて縁結びにも効力があると云われている今日ですが、江戸時代、ここで水垢離をすると腕が上がると信じられ、職人の多い江戸では人気のスポットとなります。

何十人も水垢離できそうな水盤。

明治になると、金毘羅宮は東京府の府社となり縁日・お祭りで賑わい、芝区有数の人気観光スポットとなり、新撰東京名所図会にもカラーでその活況ぶりが紹介されるほど。

明治三十四(1901年)年新撰東京名所図会より
明治三十四(1901年)年新撰東京名所図会より(クリックで拡大)。
明治四十四年の金毘羅宮。
明治四十四年(1911年)の金毘羅宮。
昭和三十六年の金比羅宮一の鳥居。
昭和三十六年(1961年)の金比羅宮一の鳥居。

今ではビジネス街の一角、ビルの谷間で、ビジネスマンにも愛されています。

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