横溝正史の怪奇小説「病院坂の首縊りの家」の中で……。
昭和二十八年九月七日のこと。金田一耕助は品川駅で国電を降りると、駅前のタクシーを拾って「魚藍坂下」と運転手に行き先を告げます。

「君、このクルマ、高輪台町をとおるかしら」
「いえ、泉岳寺前をとおって、伊皿子から魚藍坂下へ出るつもりなんですが……」
「ああ、それじゃ、君、多少廻り道になっていいから、高輪台町をとおってくれないか。バックしなきゃいけないかな」
「いえ、それは大丈夫です。高輪北町のところから左折すればいいんですから」
「じゃ、そうしてくれたまえ」
と、このような金田一耕助とタクシー運転手の会話。
金田一耕助は殺人事件の発端になった高輪台町通りの本郷写真館の前を通りたく思い、タクシー運転手に依頼しています。
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金田一耕助は高輪台町通りの本郷写真館をチラ見して、魚藍坂下に辿り着きタクシーを降ります。


魚藍坂下から続く急な激坂の病院裏坂をひとりで登り、殺人現場である屋敷の表門まで来ています。
病院表坂に比べて裏坂は空襲(病院も焼けた設定)からの復興が進んでいないと語っています。

芝公園に高射砲陣地があったため、高輪も無差別爆撃のとばっちりを受けたとも言っています。


その通り、激しい無差別爆撃は泉岳寺の山門を残して辺りを焼け野原にしてしまいます。

病院も空襲で焼け落ちたが院長の屋敷だけは焼け残り、殺人現場となる設定。地図で参照すると、屋敷は、どうやら、高輪御殿(現在の上皇上皇后両陛下のお住まい)をモデルにしているようです。


ごのように、史実や実際の地理を元にしている小説だとわかりますが、病院が見当たらず、病院坂の由来がわかりません。そこでもっと古い地図で探してみると……。

明治時代、高輪御殿のある高輪西台町は海軍病院の広い敷地。
福永肇著「日本病院史」によると、明治六年(1873年)高輪西台町の旧熊本藩細川邸の敷地に海軍省が創設。明治四十一年(1908年)築地(現在の国立がんセンター)に移転。
明治期にだけ高輪台に存在した大病院。いま、この辺りを病院坂と呼ぶ人はいません。