消えた軍艦行進曲記念碑

日比谷公園の小音楽堂の北側にある不思議なスペース。場違いで奇妙な獅子頭の装飾、不自然な石積み……この石垣の中には碑の残骸が含まれていると云います。戦前、ここには「軍艦行進曲記念碑」が鎮座していましたが、二年ほどの短命でその姿を消してしまいます。

記念碑建設の経緯

瀬戸口藤吉
瀬戸口藤吉

昭和十六年(1941年)十一月八日、軍楽師・瀬戸口藤吉が死去します。雑誌「吹奏楽」では「瀬戸口藤吉翁を偲ぶ」という特集を組み、その中の対談で、彼の業績を記念する碑を建ててはどうかとの提案があります。瀬戸口藤吉は日本人なら誰でも知っている「軍艦行進曲」の作曲者です。軍艦行進曲記念碑というのはどうだろう。場所は日本で初めて軍楽隊が演奏した日比谷公園。その楽譜と山本五十六連合艦隊司令長官の揮毫で「軍艦行進曲」の題字を、と勇ましい意見が飛び交い、その日の内に「軍艦行進曲記念碑建設会」が結成されます。

昭和十六年十二月九日付朝日新聞夕刊
昭和十六年十二月九日付朝日新聞夕刊(クリックで拡大)。

折しもその一ヶ月後、真珠湾奇襲攻撃、連日の戦果を伝えるラジオ放送、ニュース映画のバックに流れていたのが軍艦行進曲。いやがうえにも国民の機運は高まり、寄付も順調に集まります。

昭和十七年九月十日付朝日新聞より。
昭和十七年九月十日付朝日新聞より(クリックで拡大)。

その模型か完成しただけで報道するほどの熱狂ぶり。

昭和十八年一月九日付朝日新聞より(クリックで拡大)。

日比谷公園での地鎮祭も報道されますが……。

山本五十六の死

太平洋戦争は竜頭蛇尾。徐々に戦況が悪化してゆき、題字の揮毫を頼むはずだった山本五十六連合艦隊司令長官でさえも戦死したことが大本営から発表されます。

昭和十八年五月二十二日付朝日新聞より山本五十六の戦死。
昭和十八年五月二十二日付朝日新聞より山本五十六の戦死(クリックで拡大)。

急遽、有馬良橘海軍大将が題字を揮毫し、昭和十八年(1943年)五月二十九日、記念碑の除幕式が行われますが、山本五十六戦死の発表後とあっては盛り上がりに欠けても致し方のないこと。大きな報道もありませんでした。

軍艦行進曲記念碑
軍艦行進曲記念碑。彫刻家・日名子實三の作で、高さ6m X幅10m X奥行き6m。中央に軍艦行進曲の題字と楽譜。上部に航空隊を表す海鷲、中段左に連合艦隊、右に巡洋艦、下部左に潜水艦、右に陸戦隊、落下傘部隊のレリーフを配しています。

その後、悲惨な敗戦への道を突き進んで行きます。

終戦後の顛末

戦後、軍事色の強い忠霊塔・忠魂碑や銅像等が処分されることになります。

昭和二十二年(1947年)一月二十五日、東京都告示第三十八号として、忠霊塔・忠魂碑等の撤去審査委員会の決定で、軍艦行進曲記念碑は撤去の第一号に挙げられてしまいます。

一、軍艦行進曲記念碑(日比谷公園)
此の碑は、楽曲の碑であるが、その精神は日本海軍を礼讃し、国民の戦意発揚を目的としたものであるから撤去する。

この決定後、日比谷公園から軍艦行進曲記念碑が忽然と消えてしまいます。まるで手品のように跡形も無く……。

記念碑建設関係者の証言によると……。

戦犯裁判被指定を恐れた我々と東京市市役所職員とで壊して地中に埋めたり、濠に投げ込んだり。
ただ、碑文だけはトラックに積み込んで横須賀の戦艦「三笠」の船内に運んだ。今も日比谷公園の石積みには台座の破片十数個が確認できる……。
日比谷濠
日比谷濠。

このことは関係者にとっては周知の事実。実際、昭和四十年(1965年)横須賀商工会議所が中心となって、記念碑の再建を目指し、日比谷公園の解体物の払い下げを東京都知事に申請しています。

東京都知事 東 龍太郎殿 
 昭和四十年十二月二十五日
 財団法人三笠保存会
軍艦行進曲廃材払下の件お願い
厳寒の候ご清栄の段大慶に存じます 日頃は本会の事業に種々御協力いただき暑く御礼申し上げます
さて、この度、本会の事業の一端として、昭和十八年、日比谷公園に建設せられ、その後終戦により解体せられました軍艦行進曲記念碑を記念艦三笠の舷側附近に再建したく思いますので、右の解体材を本会に御払下方特別にご配慮くださいますようにお願い申し上げます

このような申請文書も残っていますが、その碑文が余りにも過激に戦意を高揚していて、都知事からは色良い返答は得られませんでした。
その碑文の内容は……。

軍艦行進曲は海国日本の表象である。この曲を聴く時われら一億日本人の胸には深き畏敬の念が湧き高き勇武の気が 盛り上がって来る。これはわれらが尊信する帝国海軍を称ふる熱情の詩であると共に国民の士気を鼓舞する、最も雄渾なる音律であるからだ。われらは幼き時より常にこの詩を口吟み、常にこの音律を耳にして、よく帝国海防についての関心を強めることが出来た。しかも、また帝国四国の海洋に封して大いなる憧れを抱くに至った軍艦行進曲こそは未来永劫日本人によって、いや高に唱へられ、いや高に奏でられるべき大楽曲なのである。茲にその意義と功績とを明らかにし、大東亜戦争完遂への国民的感激を発揚せんがため此の地を選みて軍艦行進曲の碑を建てる。
昭和十八年五月二十七日
軍艦行進曲記念碑建設会

この碑は今も記念艦三笠の中で日の目を見るのを待っています。

記念艦三笠
記念艦三笠。

有楽町に流れた軍艦行進曲

昭和二十六年(1951年)春、有楽町駅前のパチンコ・メトロからボリュームいっぱいの軍艦行進曲のメロディが流れます。店主は元海軍航空隊の搭乗員で、気晴らしに掛けたのですが、丸の内警察署署員に捕まりGHQまで連行されてしまいます。

占領時、GHQがあった第一生命本社ビル。
占領時、GHQがあった第一生命本社ビル。

手痛いお叱りを覚悟していたのですが、MP本部は「これはマーチという楽曲だ。歌詞がないなら問題ない」とお咎めなし。
海外でも名曲 ”Warship March” として愛されており、以降、ひっきりなしに掛けるようになり、同業者が真似をして全国に広がり、パチンコ屋のテーマソングのようになります。

平和な今日では、パチンコ台と闘う意欲を高めて余りあるものがあります。

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