伝馬町牢屋敷の牢は東と西があり、町奉行所管轄事件の東、火付盗賊改の西。

また、それぞれ身分により入牢する牢が決まっており、有宿の町人は大牢、無宿人は二間牢、御目見以下の武士、僧侶、山伏、医師は奥揚屋。東口揚屋は遠島(島送り)が決定した者、西口揚屋には原則として女囚。
揚座敷に入るのは御目見以上の上級武士。農民が無頼の町人といっしょの牢に入って悪に染まる事が多かったことから安永四年(1775年)百姓牢が設けられています。
という細かな決まりがあったものの、東と西の二つある最大の理由は喧嘩の当事者双方を分けて収容するため。または、仲間同志の同室を避けるため……安政の大獄で入獄した吉田松陰と橋下左内も東西の別牢でした。

吉田松陰二度目の入牢
安政六年(1859年)七月九日、長州から網籠で護送された吉田松陰は伝馬町牢屋敷の西奥揚屋に収監されます。
安政二年(1855年)伊豆下田でペリー艦隊に乗り込もうとして捕らえられ江戸に送られ入牢しているのでこれが二度目。


顔見知りの牢名主・沼崎吉五郎がいたこともあり、この時はツル(ワイロ)が無いにも関わらず、きめ板(新入りの制裁)を受けることも無く、なおかつ上座の隠居という広いスペースさえも与えられています。沼崎は才人で「孟子」を暗唱しあうほどの仲。彼の島送りが決まり松陰は残念がっています。
牢内娯楽⁉︎


伝馬町牢屋敷の悪名を広めたのは主に大牢と無宿人の入る二間牢。ある時期は一畳に十二人というひどい人口密度、見た通りの劣悪な環境。リンチやイビキがうるさいというだけで殺されたり……とはいえ、牢屋敷遺跡からはサイコロや小銭が発掘されていて、ツルさえはずめば飲酒、喫煙も出来たとか。ただしツルは銀座の一流クラブよりも高額。
入獄は愉快?
西奥揚屋に入った松陰ですが、この時、初めて徳川氏に恩を感じたと言うほどに、また「江戸獄の愉快に如かず」とも手紙の中で書いています。
松陰が入牢したのは二回とも夏から秋にかけて。前後が格子の牢は風通しがよく快適で、暑さの厳しい二時頃になると牢外に出してくれるほど徳川幕府は気配りしていると松陰は書いています。

牢内という不自由な環境の中では不便もあるでしょうが、裏で高杉晋作が手を尽くしツルを送り、松陰に筆、墨、書物を届けています。下男にツルを渡して手紙で頻繁に外部と交信。その書簡が今日まで伝わることになります。
橋本左内
安政六年(1859年)十月七日のこと、東奥揚屋に収監されていた福井藩士・橋本左内が斬首されます。松陰と佐内は面識が無かったのですが、その後、東奥揚屋で佐内と同室だった勝野保三郎が西奥揚屋に移って来たことから、左内のことを知り「本人と議論したかったが、もうこの世の人ではない」と嘆いています。
佐内は勝野に託し、松陰に敬意を込めて漢詩を送っています。

松蔭の最期
安政六年(1859年)十月二十六日、牢内で遺書とも云える「留魂録」を書き終え、翌日、辰ノ口の評定所で打首の判決を聞き、伝馬町牢屋敷へと戻ります。

松陰は紋付袴姿に荒縄をかけられたままで、東奥揚屋前まで行き、他牢との会話が禁じられているため、大声で辞世の歌を三度、吟じます。そして西奥揚屋に戻り、同牢の者たちにあいさつをして死罪場へと向かいます。

死刑執行人・首斬り浅こと山田浅右衛門らに「ご苦労様」とていねいに、そして毅然とあいさつ。首斬り浅が驚くほど落ち着き払い、日本橋石町の鐘が鳴ると同時に斬首されます。享年三十。


真筆・留魂録の出現
留魂録は牢の下男から関係者の手に渡り、故郷・長州に送られますが、弟子たちが回し読みするうちに欠損しバラバラとなり一部行方不明となって不完全なものとなってしまいます。
ところが、ご維新後の明治九年(1876年)、松陰の死から十七年経ったある日、全く同じ留魂録の完全版が忽然と出現します。
三宅島に遠島になっていた西奥揚屋の牢名主・沼崎吉五郎が特赦により本土に戻り、留魂録を持って現れたのです。

松蔭は留魂録を牢内で二冊書き、「無事に留魂録が長州に届くかわからないので一冊はあなたが保管して時が来たら長州人に渡してほしい。長州人なら誰でもよい。長州で私を知らないものはいない」と言って沼崎に託したと云います。

何たる歴史の織りなす綾。吉田松陰の心の叫び「留魂録」は伝馬町牢屋敷で書かれ、このようにして今日に伝わります。