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伝馬町牢屋敷(3)切腹から世直し大明神へ

忠臣蔵の浅野内匠頭、赤穂浪士の切腹があまりにも有名で、屋敷の庭が切腹の場と思われがちですが、伝馬町牢屋敷には幕臣用に切腹場が設置されています。

伝馬町牢屋敷切腹場マップ
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十思公園のこのあたりが切腹場跡。
十思公園のこのあたりが切腹場跡。

ここで切腹が行われた有名な事件は佐野善左衛門政言の「田沼意知殿中惨殺事件」……。

天明四年(1784年)三月二十四日

絶頂期にあった田沼意次の嫡男で若年寄の田沼意知が江戸城の殿中で新番士(将軍の警護役)のうちの一人、佐野善左衛門政言に斬りつけられ三日後に命を落とします。

続徳川実紀浚明院殿実記巻五十より。
続徳川実紀浚明院殿実記巻五十より。

幕府の正史「続徳川実紀」では、事を穏便に済ませようと事件の原因を「狂気のいたす所」として、うやむやに片付けようとしており、このことから幕閣中枢の陰謀説、松平定信の黒幕説が生まれます。

が、「続三王外記」「営中刃傷記」「佐野田沼始末記」など、数多くの根本資料が残存し、歴史学者・辻善之助博士は真相に迫っています。それによると……。

田沼家の陰謀

田沼家は、八代将軍・吉宗公に付き添い祖父・意行が紀州藩から江戸に出て来ており、いわば、地方藩士から突如として幕臣となった家柄ゆえに、欲しいのは由緒正しき家格。そこで田沼意知は佐野家の家系図を借り受け、出自の改竄を企てます(名家の佐野家はルーツが新田義貞で田沼家の主人筋に当たります)。さらに、佐野家に代々伝わる「七曜の旗」も借り、これは田沼家の定紋であるからと言って横領、返す気が全くありません。

事件を題材にした歌舞伎「有職鎌倉山」の役者絵と七曜紋。
この事件を題材にした歌舞伎「有職鎌倉山」の役者絵と七曜紋。

善左衛門は、相手が時の権力者ゆえに怒りを抑えて出世を願い、総額六百二十両もの金品を届けますが、いっこうに返答が無く、だまされたと思い、乱心狂気ではなく私怒により、ふだんは身分が違い過ぎて面会もままならず、また、殿中でしか見かける機会が無く、恐れ多くも江戸城内で刃傷に及びます。

佐野善左衛門政言口上書や事件調書もニセ物との説があり、未だ真相は歴史の闇の中。しかし、これを境に田沼時代が終わることとなるので松平定信の黒幕説も根強く残ることになります。

とは言うものの、紀州から出て来て苦労を重ねた祖父・意行、幕政改革をすすめ出世街道を突き進んだ父・意次に比べて、意知は二十七歳の若さにして若年寄の重職に就いた生まれながらのプリンスにして世間知らずのワガママ御曹司。こんな横暴があっても不思議ではありません。

事件後の佐野善左衛門政言

元禄江戸大絵図より評定所、町奉行所、獄や(伝馬町牢屋敷)。
元禄江戸大絵図より評定所町奉行所獄や(伝馬町牢屋敷)クリックで拡大。
評定所があったのは現・大手町交差点の三井住友銀行本店あたり。
評定所があったのは現・大手町交差点の三井住友銀行本店あたり。

殿中での刃傷後、善左衛門は和田倉門外、辰ノ口の評定所で事情聴取され、大手通りの町奉行屋敷の揚げ座敷に監禁されます。三月二十六日、田沼意知が出血多量で亡くなり、吟味のすえ、武家諸法度の定めるところにより判決が下ります。

四月三日の雨降る日、切腹を申し付けたのは町奉行・曲淵景漸。

佐野善左衛門政言。去る二十四日、殿中に於いて田沼山城守へ手傷負わせ候。乱心といえども、山城守手傷にて相果て候。切腹を仰せ付けるものなり

切腹の作法

「佐野政言賜死紀事」の町方与力手記に、この日の切腹の様子が詳しく述べらています。

網籠と伝馬町牢屋敷表門判決後すぐさま、善左衛門は網籠にのせられ伝馬町牢屋敷に送られます。籠は表門をくぐり善左衛門は籠を降ります。このとき、善左衛門には手錠、縄も無く両脇に立つ添介錯人が袂を持つのみ。善左衛門は埋門をくぐり、切腹場に用意された一畳の畳に正座。検使場は揚げ座敷の三、四の間が充てられていて、静かに検使の到着を待ちます。

伝馬町牢屋敷切腹場へ

田沼実秘録より当日の切腹場。
田沼実秘録より当日の切腹場。

やがて、検使・目付役の山川下総守が到着。先着の徒目付・八木岡政七、尾木藤右衛門、牢奉行・石出帯刀が表門で出迎え、武士にとっての最期の儀式「切腹」に役人が揃います。

伝馬町牢屋敷ジオラマより表門。
伝馬町牢屋敷ジオラマより表門。

切腹

善左衛門の左に立った介錯人が「某は曲淵甲斐守殿組同心・高木伊助、この度、介錯を仰せ付けられ候」と挨拶し、善左衛門も「御役目大儀、見苦しからざるよう頼み入り候」と返します。

三法添介錯人ふたりが進み出て「御仕度あれ」と声をかけると、善左衛門は肩衣をはね上げ、もろ肌を脱ぎ、「脇差しをこれへ」と最後の声を発します。牢屋同心・杉山幸内が紙で巻いた九寸五分の木刀を三方に載せ善左衛門の三尺前に置きます。添介錯人が程を見計らい「三方を載かれい」と合図の一声、善左衛門は前かがみになって三尺前の三方に手を伸ばした瞬間、刀が振り下ろされ首の皮一枚残して善左衛門は前に倒れます。添介錯人・大芦五郎次が小刀で残った皮を切りとり、首を検使・山川下総守に差し出します。検使はこれに無言でうなずき、徒目付・八木岡政七が介錯人に向かって「切腹見届け申した」と挨拶して儀は終了します。

遺体は父の佐野善三郎政豊に引き取られ浅草東本願寺の末寺・徳本寺に葬られますが、話はここで終わりません……。

世直し大明神

浅間山の天明三年(1783年)の大噴火、冷害による飢饉に喘いでいたこの時代。

殿中惨殺事件の翌日、偶然にも米相場が乱れて価格が下落しはじめます。物価の高騰、田沼父子の政治に反感を持っていた町人たちは狂喜乱舞。善左衛門のことを「世直し大明神」とまつりあげ、徳本寺には連日、参詣客が押し寄せ、門前に花、線香の屋台が立つほどに。

粟田口忠綱
粟田口忠綱。

善左衛門の差料であった粟田口忠綱の刀の相場も跳ね上がり、巷では「鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れ焚きつけて 佐野にきらせた」などと暗に陰謀をうたう落首が流行ります。

徳本寺
徳本寺。

佐野家の知行地・上州甘楽郡からお百姓、名主たちがご隠居、父の佐野善三郎政豊の家に見舞金を持って訪れます。

元禄江戸大絵図よりサノ伝兵(祖父・佐野伝左衛門)。
元禄江戸大絵図よりサノ伝兵(祖父・佐野伝左衛門)クリックで拡大。
御厩谷坂下の現・大妻女子大あたりにあった佐野家。
御厩谷坂下の現・大妻女子大あたりにあった佐野家。
御厩谷坂
御厩谷坂。

父・善三郎は見舞金をいったんは受け取り「当家も改易、知行地も天領となり、今よりも高い年貢になるであろうから」と言って返します。お百姓たちはこれを徳本寺に寄進します。

佐野善左衛門政言墓
佐野善左衛門政言墓。

昭和二十年(1945年)三月二十日の大空襲でほとんど破壊されてしまった墓石ですが、今も線香の香りが絶えない世直し大明神の墓前です。

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