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いだてん・金栗四三「金栗足袋からカナグリ・シューズへ」

ストックホルムアントワープパリと三度のオリンピックを足袋で挑み、そして散っていった金栗四三。
現役引退後の心残りは辛作さんの作った「金栗足袋」で世界に勝てなかったこと。

金栗足袋

ハリマヤの黒坂辛作は、金栗の失敗をあくまで足袋の敗北として自らを責め、マラソン足袋の改良、世界制覇を目指して新たな努力を重ねてゆきます。

黒坂辛作
黒坂辛作。

辛作の持論は
マラソン足袋は緩すぎず固からず」。
足にピッタリに作ってしまうと走っているうちに徐々に足がムクれてマメが出来てしまい、逆に緩く作るとキック力が地面に伝わらず、さらに靴ズレが出来てしまいます。そして、市販の金栗足袋のような丈夫さよりも軽さが重要。

42キロ走ったころにマメが出来始める

そのような理想はあるもののこれがなかなか容易ではありません。走る選手の足の形は様々で採寸から足を包み込むような成形、縫合、全てが手作りの職人技。「どうしてオレはこんなに下手なんだ!」と悔し涙を流す夜が幾晩も続きます。

ヒットラーのオリンピック

努力の甲斐あって昭和十一年(1936年)のベルリンオリンピックで金栗足袋を履いた朝鮮半島出身の孫基禎が金、南昇竜が銅メダルを獲得。

昭和十一年(1936年)八月十日付け東京朝日新聞より
昭和十一年(1936年)八月十日付け東京朝日新聞より
昭和十一年(1951年)八月十日付け東京朝日新聞号外より
昭和十一年(1951年)八月十日付け東京朝日新聞号外より

ベルリンオリンピック日本選手団の入場

ヒットラーのオリンピックといわれたこの大会、日本の統治下にあった朝鮮人選手が日本国籍として出場。

昭和十一年(1936年)八月十一日付け東京朝日新聞より
昭和十一年(1936年)八月十一日付け東京朝日新聞より

なぜわれわれは君が代を歌わなければいけないのか」と国際問題を露呈しますが、金栗足袋は世界の頂点に立ちます。

金栗足袋を履く孫・南選手
金栗足袋を履く孫・南選手。

最後の最後はマメが出来て痛かったと孫選手から聞き、辛作の狙いはズバリ的中。

昭和十一年(1936)年八月十一日付け東京朝日新聞より
昭和十一年(1936)年八月十一日付け東京朝日新聞より。

黒坂辛作と息子の勝蔵は新聞取材を受け、一躍、時の人に。記事の中で辛作は「金栗式スポーツ足袋、外国にはこんな指の股のついたのなんかないでせうナ、ハハハーーー」と欠けた歯を出して得意そうな笑顔。

金栗との出会い以来、黒坂父子の苦節三十年が実ります。

孫選手が履いた金栗足袋
孫選手が履いた金栗足袋。

やがてマラソン、スポーツどころではなくなる第二次世界大戦の勃発、そして敗戦。世界の勢力図も大きく塗替えられ、日本の選手が日本の金栗足袋で世界に挑戦する日がやってきます。

ストックホルムオリンピック後に辛作が涙ながらに金栗に誓った言葉「どんなことをしても日本の選手を世界の大競争で優勝させてみせる……」が実現することとなります。

アトム・ボーイ

戦後の昭和二十六年(1951年)ボストンマラソンにおいて広島出身の十九歳の少年・田中茂樹が優勝。敗戦国・日本に明るいニュースをもたらします。

昭和二十六年(1951年)四月二十一日付け東京朝日新聞より
昭和二十六年(1951年)四月二十一日付け東京朝日新聞より

レース後、取り囲むアメリカの記者たちは「すぐにその履物を脱げ」と言い、素足をマジマジと見て「日本人の足の指は二指では無かった」「Atom boyー原爆で全滅したと思われていた広島の男の子の奇跡」などと書き立てて、山田と金栗足袋は驚きと好奇の目で見られます。

田中選手が履いた金栗足袋
田中選手が履いた金栗足袋。

勝蔵の苦心

黒坂勝蔵勝蔵は金栗と辛作がゴム底の足袋を開発している頃から父の弟子となり二人の二人三脚の努力を見てきています。金栗の練習には何種類もの試作品を自転車に積み併走。
金栗の引退後もマラソン大会があると勝蔵は自転車で選手に伴走します。箱根駅伝の際は東京ー箱根間を往復。宿舎で選手のところへ行き自分の作った足袋の履き具合を聞いてまわります。そして傷んだ箇所を丹念に調べあげ改良の参考にします。そのうちに……。
ハリマヤの勝蔵さんは気が変になったんじゃないか?」と大塚仲町の近所で噂がたちます。
勝蔵は大会が待ちきれずに自分の作った足袋で走りだしたのです。あるときは大塚ー大宮氷川神社までを往復、自らの試作改良品を試します。

金栗足袋本舗の看板を掲げるハリマヤ。
金栗足袋本舗の看板を掲げるハリマヤ。

進化したカナグリ・シューズ

勝蔵の研究熱心は親譲り。そんな中、ランナーたちから足指の股でキック力が分散するのではないか?という声が上がります。自分でも走っていたので気づいてはいたこと。股を廃止したシューズの研究開発に没頭します。

股の縫合の手間、マメの原因は少なくなりますが、今度は体重が前にかかり過ぎ指先が反り返って指が死んでしまいます。父同様に足袋職人としての常識や過去の技術、プライドをかなぐり捨て、前後のバランス、土踏まずの保護を考え抜いた「カナグリ・シューズ」は完成します。

山田選手がボストンマラソンで履いたカナグリ・シューズ

足袋から進化したからこそ、カナグリ・シューズは靴でありながら靴下のように足にフィット。

山田敬蔵の優勝

勝蔵のカナグリ・シューズはすぐに結果をあらわします。

昭和二十八年(1953年)四月二十一日付け東京朝日新聞より
昭和二十八年(1953年)四月二十一日付け東京朝日新聞より

昭和二十八年(1953年)のボストンマラソンで山田敬蔵が当時の世界記録(のちに距離不足判明)で優勝。山田と息子の快挙に、ご隠居・辛作は悪い足を気にせず「よかったあ、よかったあ」と言って一日中、家の中を歩き回ったとか。

晩年の二人

金栗と黒坂父子との交流は晩年まで続き、辛作は金栗のことを「与えることしかしない、まるで太陽のような人だ」と褒め、金栗は「その研究熱心さ、努力には頭が下がる。マラソン王国・日本を支えた辛作さんと勝蔵くん、ありがとう」と。

金栗と黒坂辛作
晩年の金栗四三と黒坂辛作。

ハリマヤの栄光は金栗と黒坂父子、その弟子たちが四十年もの苦労の末に勝ち取ったものでした。

その後もハリマヤはカナグリの名を冠したシューズを次々と発表しますが、残念ながらバブル期に倒産。往年の名ランナー・谷口浩美選手もハリマヤ愛用者のひとりです。

ハリマヤは金栗との出会いから始まり日本陸上界に金字塔を打ち立てたメーカーでした。

「いだてん最後のゴール」へとつづく

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金栗足袋発祥の地

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