「将門公の首塚の祟り」始まりから明治新政府vs江戸っ子

東国で新王を名乗り朝廷に逆らう平将門には七人の影武者がおり、弓を放っても本人には当らず。将門の妾・桔梗姫が密告。「本人だけはこめかみが動く」と俵藤太に告げると弓矢は将門のこめかみを貫きます。

将門伝説

京都、七条河原に晒された平将門の首は眼を塞がず三ケ月経っても色褪せずに、まるで生きているかの如し。夜な夜な牙をむき怒声をあげますが、ある夜、眼を閉じニタリと笑ったかと思うと東国へと空高く飛行。一夜のうちに武蔵国豊島郡柴崎村の田の中へ落ちますが、夜な夜な光を放つのでこれを埋葬して塚を作り祀ります。すると今度は首なしの鎧武者が村の家々に「わが首いずれにあらん、おしえたまえ」と尋ね来るので首なしの胴体を埋めたのが「からだ山」神田山と云います。

平将門伝説は日本各地に残りますが、東京のど真ん中、大手町のビジネス街に残る平将門公の首塚伝説はこのようなもの。

三方向工事中のため、ゲージで守られている将門塚。

将門塚

将門塚

柴崎古墳

将門の首塚とされるものは、もともと柴崎古墳として知られていたもので、古代から中世にかけての江戸想像図を見ると砂州が広がり形成する江戸前島半島が出来る前の日比谷入江の海岸近く、柴崎村にあった古墳です。

中世の江戸想像図

古墳とは入江に入ってくる外来の船舶に、この土地の支配者の権力、所有権を示すもの。また、見張り台の機能も果たします。上野の不忍池がまだ海続きだったころ、同じ目的で上野のお山には摺鉢山古墳が残ります。

将門伝説の発端

中世、執権・北条師時の治世、江戸氏の勢力が衰えた頃の嘉元元年(1303年)諸国を巡礼していた時宗の他阿真教上人が柴崎村で目にしたものは、荒れ果てた社(津波か台風で崩壊し津久戸村の高台に移った筑土神社の前の社と推測)と古墳、村では疫病が蔓延し見るも無残なありさま。

現・津久戸町から九段中坂に移転した筑土神社。
戦後、津久戸町の筑土八幡神社のお隣から九段中坂に移転した筑土神社。
筑土八幡
筑土八幡神社。
江戸氏の居館比定地の一つ。東京国立近代美術館。
江戸氏の居館比定地の一つ。東京国立近代美術館の地。

これを「将門公の祟り」であるとし、古墳を平将門の墓に見立てて祀ったのが始まり。真教上人は古墳を整備、社の跡に日輪寺を造営。以後、古墳を将門塚として手厚く供養。徳治二年(1305年)将門公に「蓮阿弥陀仏」の法号を追贈し碑を立てます。

真教上人と徳治二年銘の碑の拓本。
真教上人御真影と徳治二年銘の石碑の拓本。

家康の江戸城下造成

徳川家康が江戸入りし征夷大将軍になると江戸城下の埋め立てが加速。それにより上平川村、柴崎村は大名屋敷地となり、村人と寺社は移転を余儀なくされます。上平川村、柴崎村にあったのは真教上人が開いた柴崎道場・日輪寺(浅草柴崎町へ移転)、安房神社(神田山へ)、法恩寺(本所へ)、養玉院(上野山下へ)。

流れ巴神田明神は一説に安房国(千葉県房総)の漁民集団が移り住み安房神社の分霊を祀った「安房神社分社」が始まりと云います。神田明神の社紋は水の渦を表わす「流れ巴」で海との関係を示唆。地勢的に見てもこの説には説得力があります。

将門公と大己貴命(だいこく様)を祀っていた安房神社は神田山(現・駿河台)に移転して神田明神と称しますが、今度は埋め立て用の土砂として神田山を切り崩すことになり、現在地の湯島に移転。上野寛永寺とともに江戸城の鬼門を守り、江戸の総鎮守として徳川幕府から厚い庇護を受けることになります。

なのですが、そう、古墳は移転できません。

大名屋敷内の将門塚

柴崎村の地は大老・土井大炊頭に与えられますが、将門塚は庭の築山として利用されます。以後、二百数十年間、大名が代わっても土井家にならい将門塚は保存されます。特に酒井雅楽頭の時代には塚の前に将門稲荷神社を建て、お女中たちが寄進した灯篭が立ち並び、神田明神の祭礼ともなると神輿を招き入れ、神楽を盛んに奏して将門公の霊魂を弔ったとか。

嘉永二年(1849年)大名小路神田橋内内桜田之図より酒井雅楽頭。
古地図:嘉永二年(1849年)大名小路神田橋内内桜田之図より酒井雅楽頭(クリックで拡大)。

江戸時代、将門公は怒ること無く江戸を守りますが、幕府の終焉。明治新政府となると、その霊力を発揮することになります。

明治七年事件

明治天皇が即位し奠都。江戸から東京へと変わり、酒井雅楽頭の屋敷地は大蔵省となりますが将門塚は省内の中庭に残こります。

新撰東京名所図会より大蔵省
新撰東京名所図会より大蔵省と前庭。左スミに将門塚の紹介もあります(クリックで拡大)。
古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より将門塚。
古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より将門塚(クリックで拡大)。

将門塚は明治になっても安泰ですが、江戸幕府から庇護を受けていた神田明神は新政府から標的にされてしまいます。

明治五年(1872年)教部省は将門公祭神廃止論を掲げ、朝廷の逆臣・将門公を祭神から下ろせと神田明神に迫ります。

当時の神田明神の祀官は本居豊穎氏で、あの国学の大家・本居宣長のひ孫に当たる人物。この問題は東京府知事・大久保一翁と本居氏との間で折衝することになり、本居氏の案は柴崎家に伝わる古文書「神社啓蒙」の一節「将門の社は本殿を去ること百歩」を引用して、将門公を摂社に移し、代わりに少彦名命(えびす様)を大己貴命(だいこく様)と合祀するというもの。

これを聞いた教部省は雑誌「新聞雑誌」に、あくまで消し去れと「府下神田神社、平将門ノ霊位除却ノ事ニ付、教部官員等議案」なる反対意見を掲載しますが、五日後、大久保府知事はあっさり本居氏の願出を許可。祀官は本居宣長のひ孫、府知事は旧幕臣ということが神田明神に幸いします。

そして、明治七年(1874年)八月十六日、少彦名命の分霊が大洗磯崎神社から遷座され大己貴命と同殿に迎えられます。

郵便報知新聞将門公は摂社として残ったものの、江戸っ子たちは不満たらたら。明治七年(1874年)九月十四日付け郵便報知新聞は江戸っ子の心情をこう伝えています。

要約すると……
「朝廷にこびへつらい、将門公に背くとはけしかん。江戸っ子たちは賽銭の一文を投げるのも快く思わず、代わりに将門公の新社造営のために寄付金が千円(数千万円)も集まっている

古写真:神田明神内、将門霊社。
古写真:神田明神内、将門霊社。

さらに教部省の強硬姿勢は続き、今度は「神田大明神」の扁額を外せというのです。教部省の理論ではこの扁額は霊元天皇の勅命で大炊御門経孝が将門のために筆したものだからという言い分。

霊元天皇
霊元天皇。

このイジメとも言える仕打ちに太政官も東京府も「霊元天皇の思し召しを覆すとは何たることか!」と猛反発。祀官・本居氏は各方面に陳情。太政官と東京府の顔を立てて時の太政大臣・三条実美に筆を依頼。「神田明神」とし、この一件を落着させます。

現在は「神田神社」の扁額。
現在は「神田神社」の扁額。

江戸っ子たちの不満は積りにつもり、将門公の怒りもいつ爆発するか時間の問題と思われましたが、そのとき……。

明治天皇の御幸

この年の九月十九日、明治天皇は板橋はずれの蓮沼村に大演習を御親閲。皇居への帰路、予定を変更して非公式ながら神田明神に御親拝します。

明治期の東京で天皇陛下が御幸されたのは、靖国神社、大宮氷川神社と神田明神だけ。非公式とはいえ、民のことを想う心やさしき陛下が御幸してくださったと江戸っ子たちは大喜び。将門公の怒りも収まります。

明治天皇御幸碑
明治天皇御幸碑。

明治十年(1877年)一月、教部省は廃止。業務は内務省に移管されます。
しかし、御祭礼が十年もの間、中断したことも事実。明治十七年(1884年)九月十五日、十年ぶりに神田祭が復活。大伝馬町から金沢町まで四十六台の山車が勢揃いして準備万端。

新撰東京名所図会より神田明神祭礼
新撰東京名所図会より神田明神祭礼。

ところがこの日、台風が襲来。全国の死者五百三十人、東京府下の全半壊家屋三千二百戸の被害をもたらし、神田の氏子が江戸時代から大切にしてきた山車のほとんどが破損してしまいます。
翌日の時事新報では「神田八丁堀栃面屋(トッチメ屋)の弥次郎老人」なる匿名者の「将門様の御立腹」と題する記事が載っています。
時事新報この記事を要約すると……
三百年の鎮守の恩を忘れ朝敵だからと末社に追いやるとはおかしなこと。今日こそは大祭礼。将門公は日本全国から風雨を集めて八百八町を荒れまわり、御祭礼をメチャクチャになさった。一寸の虫にも五分の魂あり。いわんや将門大明神様をウカウカと朝敵呼ばわりして後で後悔したもうなかれ

明治期に将門公が暴れたとされるのはこのときだけですが、関東大震災後、不可解な事件が頻発。将門公伝説が再燃することになります。

将門の霊よ、鎮まり給え「将門公の首塚の祟り」へとつづく

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