時は元禄十五年(1702年)12月14日、吉良邸討ち入りを明日未明に控えた日。大石内蔵助は、雪の中、赤坂は南部坂上にある三次浅野土佐守下屋敷(現・赤坂氷川神社境内)を訪れます。

此処では、亡き主君・浅野内匠頭の未亡人・瑶泉院(ようぜいいん)が寂しい毎日を送って居ります。
「して、内蔵助、このように降りしきる雪の中、わざわざ当家に参るとは、さては討ち入りの日時の定まりしことかと……早う聞かせて喜ばせてたもっ」
ハッ!と驚く内蔵助。普段からつつしみ深くあらせらるる瑶泉院様から、また、お女中衆の満座の中でそのようなことを……。近くに吉良の間者がいるかと恐れた内蔵助。所払いなどすれば、かえって怪しまれてしまいます。
ニヤリと作り笑いを浮かべながら、
「これはまた思いもよらぬお尋ね、わざわざ下向いたしましたのは、江戸住まいに耐えかね、早や、山科に立ち返らんとお暇乞いを願わんがため、討ち入りなどとは思いもよらずに」
「これ、内蔵助、これに控えるおなごどもは皆、心底、われに尽くしてくれる者どもぞ、心置きなく内訳けてたもっ」
仕方なく、内蔵助は心にもないことを口走ります。
「ははは、その折りは血気にはやる者たちとそのようなこともございましたが、日が経つにつれ、気も失せり、同志も去り、今は山科にて心安く余生を送りたく思うばかり……さすれば亡き殿の場所をわきまえることなき殿中での行い、かのことさえなければ家中皆、つつがなく過ごせりしをと……うっうっ」
「内蔵助!そちは先君のお位牌の目の前でそのようなことをよくも言えたかっ!さては侍の性根までも腐り果てしかぁ!下がりおれぃっ!」
侍女を従え仏間を出てゆく瑶泉院。
深々をこうべをたれる内蔵助。
戸田の局
玄関口まで送りに出るお女中頭の戸田の局。彼女は四十七士・小野寺十内秀和の妹、小野寺幸右衛門秀富の姉にあたり、女だてらに薙刀などを教えるおんな丈夫にございます。

「元ご城代、ここにはもはや誰もおりませぬ、せめて、この戸田にだけは、真実をお話しくださいませ」
「ははは、そのようなおかいかぶり、かえって迷惑に存じます」
「さようでございますか……では、我が兄・弟の消息、ご存知でしたらお教え願えますか」
「おお、十内殿でござるか、彼は確かぁ、祇園にてタイコもちをしているとか聞き申す」
「タイコもち?と申されますと、さては陣太鼓の教連などを、さすがは武勇すぐれし我が兄!」
「いやいや、そのように武張ったことではござらん、幇間(ほうかん)の事」
「幇間と言いますと、男芸者……」
弟はというと三条、四条の河原で芸者などを何人も肩に乗せる力持ち芸人と聞き、嘆き悲しむ戸田の局。
「さて、お局殿、これにあるは東下りの折にしたためし連歌を綴ったもの、瑶泉院様に手土産にと持参いたしましたが……」
内蔵助は懐から袱紗に包んだ紙包みを差し出します。
「先ほどはお怒りゆえ、お渡しすること叶いませんでした」
「兄おとうとのこと聞かぬ方が良かったようでございますが、かしこまりました、お怒りが覚めた頃、お渡しいたします」
「では、これにて!ごめん!」
内蔵助は、これが今生の別れかと思うと、流れそうになる涙をまぶたにとどめ、控えていた足軽・寺坂吉右衛門を従えて、蛇の目をさし背中で泣きつ、南部坂の雪を踏み分け、同志の待つ本所へと向かいます。

吉良の間者
夜が更け、床についた戸田の局は、なかなか寝つけずおります。それもそのはず、血肉を分けた兄おとうとが、まさに吉良邸に打ち入ろうとする直前でございます。
その時、襖越しに人の気配を感じる戸田の局。
襖がスーッと開き床の間に置いてある袱紗包みに手が忍びよる。「曲者っ!」と盗人を捕らえてみれば、お付きの侍女の紅梅。
「これ!紅梅!そちは金子の在り処を知りおろうに、何ゆえ、大石殿から瑶泉院様へと預かりしこの袱紗を……はっ!、あいわかったっ、そちは吉良の間者に相違ないなっ!」
袱紗に包んだ紙包みを開けるとそこには
「討入同志連名血判状」の題字が……。
と、ここまで書きましたがこのお話は全くのフィクション。
用心深い大石内蔵助がのちに未亡人に嫌疑が及ぶような行動をするはずもなく。また、雪は二三日前には降ったようですが、この日は止んでいたようです。
「南部坂雪の別れ」は明治時代、浪曲師・梅中軒雲右衛門が脚色し有名になったお話です。
しかしながら古地図を見ると、地理的には全く破綻の無い物語になっていて実話かと思ってしまうほど、まことによくできたお話です。
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八歳の幼い身で家督を継いだ浅野長矩の幼名は「又一郎」。元禄の少し前、延寳八年の地図では「浅野又市」と表記されています。
元禄年間の地図では、区画整理が進み、浅野内匠頭邸の近くに三次浅野土佐守邸が移転してきています。
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松の廊下刃傷事件が起きた元禄十四年(1701年)3月14日、その日のうちに浅野内匠頭は切腹、お家取り潰しになってしまったため、翌日、未亡人・阿久里(瑶泉院)は実家である三次浅野土佐守邸に移ります。
元禄の頃、東海道方面、本所方面から浅野内匠頭邸、三次浅野土佐守邸へ行くならばこの南部坂を登ることになります。

今井谷六本木赤坂絵図より南部坂、赤坂氷川神社(クリックで拡大)。.jpg?resize=474%2C474&ssl=1)
八代将軍・吉宗治世の頃、三好浅野家も断絶。以降、赤坂氷川神社が遷座し今日に至ります。
忠臣蔵に虚と実はあれど「南部坂雪の別れ」この段がなければ、サビ抜きの上寿司のようなもの。
日本人の心底に棲む忠義の物語です。
真実の元禄赤穂事件
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