隅田川に架かる永代橋。今の橋は四代目。初代は元禄十一年(1698年)、二代目は文化五年(1808年)に架け替えられ、三代目は明治三十年(1897年)、日本初の鉄橋として架橋されましたが関東大震災で痛み、その北側のお隣に今の橋が大正十五年(1926年)に架けられました。

この噺は初代の橋に起きた実話を元にしたものです。
永代橋
文化四年(1807年)八月十五日に行われるはずだった深川八幡の御祭礼。雨で延びに延びになり、やっと晴れた十九日に執り行われることになります。




神田大工町に住む武兵衛も物見遊山で散財しようとやって来ますが、永代橋のたもとは押すな押すなの混み合いで、身動きができずにいると、スリに遭ってしまいます。

一文無しになり、仕方なく帰ろうとすると、新川に住む知り合いの「山口屋」さんにばったり出会います。
この混雑に深川の八幡様に行くのを諦めた山口屋さんに、
「うちは近いですから、うなぎでもつまみながらチビチビやりましょうかぁ」
と家に招待され、二人で呑んでいると、人の重みで永代橋が落ちたとの知らせがщ(゚Д゚щ)。
「外は大変な騒ぎですよ。まあ、今日のところはうちに泊まってきなさいな」と言われ、翌日朝から呑み直し、お小遣いまでもらい、イイ気持ちになって長屋に帰ってまいります。
すると家主の多兵衛が、うおさおと長屋を走りまわっています。
「大家さん、どうかしたんですかぁ?」
「おぉ、武兵衛、おめえ、祭りに行ってたなぁ。まあいい、ちょうど良かった、一緒に来い!」
「どっ、どこへすかぁ?」
「おめえ、昼間っからぁ酔ってやがんなあ。だからこんなことになるんだっ」
「えへぇ〜どうもぉ」
「笑ってる場やいかっ!今朝なぁ、奉行所からこんな差し紙(通知)がきたんだ」
と言ってその差し紙を見せます。そこには、
神田大工町・家主多兵衛支配店・武兵衛 水死に付き 引き取りに参れ
と書いてあります。
「えっ(*’д’*)、あっし、死んだんですかい?」
「あぁ、橋から落っこって死んじまったんだ。お上が引き取りに来いと言うんだ、本人が行けば間違えがねえだろう、行くぞっ」
と二人は奉行所へと歩いて行きます。
「う〜ん、どうも死んだ気がしねえんですけどねえ」
「馬鹿やろっ、おめえ、初めての死だろっ、初めての死で人の死んだ心持ちがわかるわけがねえっ。死んだくせに生意気だ!少し後ろを歩けっ!」
奉行所に着き、武兵衛が武兵衛の遺体と対面します。
「えっ、これがあっしの遺体ですか?、あぁ〜こんな姿になるんだったら先月無理して家賃払わねえで美味しいものでも食っておくんだったなぁあ〜 (p_q、)」
「馬鹿やろ!まだ四つもたまってるっ」
「お香典ください」
「家賃と帳消しだっ」
「ん〜ん、ちょっとぉ顔が長くないですか?」
「水に浸かって伸びたんだ」
「こんなところにホクロあったかなあ?」
「死ぬ時にホクロの一つや二つできることもある」
「着物も違いますけどおぉ?」
「大勢で亡くなったんだっ。落ちてく間に、こっちの着物があっちの着物と入れ替わることだってあるんだっ。さっさと引き取れっ、独り者なんだから自分のことは自分でやれっ」
「えー、これは重そうだなぁ。じゃあ、こっちの軽そうなのを」
「馬鹿やろっ、魚買いに来たんじゃねえんだぞっ、ボカッ」
と頭を殴られ、言い合いになってしまいます。
この言い合いの仲裁に入った役人が理解します。
武兵衛のスラれた紙入れ(財布)が遺体の懐から出てきたのでスリが代わりに死んでくれたようなものだと判明します。紙入れの中に名札があったので多兵衛のところへ通知が行ったのです。
まだ口論している二人に役人が言います。
「武兵衛、そのほう、お前の負けじゃ」
「へっ?なっなんでですか?」
「多兵衛(多勢)に武兵衛(無勢)はかなわん」
橋上の機転が大勢の命を救う
文化四年(1807年)八月十九日に起きたこの悲劇、永代橋崩落事故では、その日のうちに198名の水死が確認され、一説には計千人以上が犠牲になったと云います。その後いく日もの間、下流に下駄が流れてきたと云うほど。
それでも犠牲者は少なかった方だろうと云われていますが、それはなぜかというと。
その時、たまたま橋上にいた町奉行所同心、渡辺小左衛門という侍が橋の異変に気付き、欄干につかまりながら刀を抜き、白刃をキラキラと頭上で振り回し「斬るぞぉ斬るぞぉー」と叫んだため、後から押し寄せる群衆は「喧嘩だ!ケンカだぁ!」と後ずさりしたため、橋の崩落箇所(深川側から四・五つ目の橋脚部)からの将棋倒しのような転落が止まったと云います。

架橋されてから百九年目の大事故。
老朽化も甚だしいものがあったようです。
実在した武兵衛
実はこのお噺の「武兵衛」には実在したモデルがいました。
隅田川を船で通りかかり、偶然、この惨劇を見ていた当代一の文人、大田南畝(1749年ー1823年)は、その記録集、当事者へのインタビューなどをまとめた「夢の憂橋」なる著作をものしています。
その本の中で、祭礼に行く途中、二両二分スラれ、スリの水死体から自分の紙入れが出てきたため、自分が水死と奉行所に間違われたという稀有な体験をした人、本郷に住む麹屋武兵衛の話が載っています。
この話を元に落語にし、カタストロフィを笑いで吹き飛ばてしまう。そんな文化が、お江戸にはありました。
元禄の頃の永代橋は赤穂浪士が渡った橋としても有名です。
真実の元禄赤穂事件
古地図でたどる泉岳寺への道
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