勝麟太郎(勝海舟)という人物、熱狂的なファン(隅田公園に銅像が立つほどの)と、日本一の大ボラ吹きと揶揄するアンチも多くいます。
幕末の偉人なのは確かなのですが、江戸無血開城の立役者なのは確かなのですが、饒舌すぎて、言ってることがわからなくなってしまうことがあります。
それはなぜでしょう?
どうやら「この親あってこの子あり」のようです。
勝小吉
勝小吉は勝海舟の父であり、よくもまぁ、こんな親に、勝海舟のような優秀な子が出来たものだと驚嘆してしまうほどの札付きのワル。
子孫への戒めのためにと、反面教師にしろと、彼のハチャメチャな生涯を綴った「夢酔独言」なる自叙伝をものしています。
「夢酔独言」家出
享和二年(1802年)
本所の御家人・男谷平蔵の妾腹に生まれ、男谷家の三男となっています。小さい頃から喧嘩好きの暴れん坊。
文化十二年(1815年)14歳のとき
家の金を八両ほど盗みщ(゚Д゚щ)、理由もなく「上方にでも住むか」と家出。
しかし、浜松の宿に泊まり寝ている間に着物、大小、金も盗難にあい、乞食同然の姿に。
宿屋の主人に柄杓一本貰って、これで浜松城下で一文ずつ貰って来いと言われ、一日中もらい歩き、翌日
「先づ伊勢へ行って身の上を祈りてくるが良かろう」
と言われたので、優柔不断にも伊勢神宮へ。


伊勢で金を借り倒し、乞食仲間らにも助けられ放浪の旅を続けます。
白子宿(三重県鈴鹿市)の松原で野宿中、熱病にかかり二十二、三日ばかり寝込んでいましたが、お坊さんに助けられ、杖をつきながら、トボトボと歩きます。

石部(滋賀県湘南市)まで行きますが、旅の長持運びに
「手前は患らったな、どこへ行く」
「上方へ行く」
「あてがあるのか」
「あては無いが行く」
「それはよせ、上方は行かぬ所だ。それより江戸へ帰るがいい」
と言われたので、どうやら、この辺りで上方は断念したらしく、その後、箱根近く(原文では、所は忘れたが或崖のところに)の岩の上で寝ている間に落ちて、金玉(原文ママ)を岩の角にシコタマ打ち、気を失ってしまいますщ(゚Д゚щ)。つづく……。
能勢妙見山別院、息子もまた
実は息子の勝海舟9歳の頃、稽古の帰り道、野良犬にタマを半分喰いちぎられ(痛っ)生死の狭間をさまよいます。


医者が言うには「今晩もつかどうか?」の重症。父の小吉は能勢妙見山別院にて、七十日間、水をかぶり神頼み。
その甲斐あってか息子(文字通り息子)は奇跡的に全快したと云う逸話があります。親子は変なところが似ます。


「夢酔独言」なかなか家に帰れない
金玉(原文ママ)が痛くて歩けなくなりますが、二、三日過ぎると少しづつ良くなってきたので、我慢して二子山(箱根芦ノ湖)まで歩き、野宿。ここで寝ていて「よく狼に喰われなんだ」と呆れる往来の人々に親切にされ、その中のひとりの漁師に
「俺の所へ来て奉公しやれ。飯は沢山喰われるから」
と言われ、ついていきます。
小田原の漁師、喜平次の家に世話になります。漁の手伝いをし、金玉(原文ママ)が痛くなって動けなくなると「亀が動かなかくなった(小吉の通称は亀吉)」と笑われながらも、我が子のように可愛がってくれるやさしい喜平次。二週間ばかり経つと、
「おらが所の子になれ」 と言われますが
「つまらねえから、江戸へ帰って親父の了簡次第になるが良かろう」と思い、
親切にされたこの家でも、あろうことか金を盗みщ(゚Д゚щ)、たっぷりの弁当までこしらえて夜逃げします。
その後、鈴ヶ森で野犬に襲われ、高輪の漁師町で船に寝ていて怒られ、愛宕山に登り、降りるフリして茂みにもぐりこみ、三日ばかり寝て過ごします。

そして五日目の夜、ようやく両国橋まで帰ってきます。

こんなに近所まで帰ってきたのに、実家と目と鼻の先(約250メートル)の回向院の墓地に身を隠し、乞食の頭に仲間に入れと言われ「そやつの所へ行って、したゝか飯を喰い倒して」実家から200メートルくらいの亀沢町に乞食寝床を移します。
よほど帰るのが気まずかったようでなかなか帰れません。

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それから三日目、家出してから四ヶ月、ようやく家に帰ります。
金玉(原文ママ)が腫れて痛く「二年ばかりは外へも行かず家住まいをしたよ」だそうですヽ(`Д´)ノ 。

「夢酔独言」その他の悪事
文化十四年(1817年)16歳のとき
知行地から来た年貢7,000両のうち、200両を盗みとり、千両箱がカタカタいうので石を詰めておくという用意周到さ。
その金を一ヶ月半のうちに吉原で使い切ります(ということはタマは全快した模様)。
また、初めての逢対(あいたい、武士の就活)で自分の名前が書けずに、他人に代筆して貰います。
蔵前や浅草で刀を抜き、たびたび喧嘩をしますが、刀が折れるので、刀の目利きの修行を始めます。動機が不純です。
文政二年(1819年)18歳のとき
浅草馬道で道場破り。その後、諸方で試合をし、下谷・浅草・本所辺りでの他流試合を取り仕切り、多くの剣術遣いを子分の様に諸国へ出仕させ、名を拡めます。他流試合を商売にし毎日喧嘩。子分を連れ歩き遊び、借金がどんどん増えていきます。
文政五年(1822年)21歳のとき
再び家出щ(゚Д゚щ)。
もう〜書ききれませんので(略)ヽ(`Д´)ノ 。(*´Д`*) 〜з
何が言いたかったかというと、勝小吉「夢酔独言」には多分に「見栄」があるということ。
それを「江戸の粋」とでもいうのでしょうかヽ(`Д´)ノ 。
子孫のために、反面教師になるために、ずいぶんと話を盛っていて、どこまで信じていいのかわからなくなってしまいます(「熱病にかかり二十二、三日ばかり寝込んで」ってそんなに長く寝てられませんよ、死んでますよ、盛ってますてぇ)。
そんな誇張グセが息子の勝海舟にもあるのではないでしょうか?。江戸っ子の噺は大きくなるものです。逃がした魚は大きいように。

嘉永三年(1950年)九月四日
勝小吉死去、
享年49歳。
死因は江戸の贅沢病「脚気」と云われています。
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