西洋医学所は何処か

古地図に無いアキバー西洋医学所は何処にあったか?

東京というところは殆んどの場合、江戸の古地図、切絵図を見ながら歩けてしまいます。江戸はもともと、湿地と台地が点々したところに町づくりをしたため、頭上を首都高が走りますが堀は残り、坂道は江戸時代と同じ名前でそのままの形で残っているか、自動車用に緩やかに長くしたものでも坂名は同じで、目安となります。

その「殆んど」という大多数に入らないのが、赤坂溜池秋葉原です。

山王日枝神社
山王日枝神社。エスカレーター付の参道。
山王日枝神社鳥居の前の通りがもと溜池。
鳥居の前の通りがもとの溜池。
古地図:元治元年(1864年)尾張屋刊外桜田絵図より山王日枝神社
古地図:元治元年(1864年)尾張屋刊外桜田絵図より山王日枝神社(クリックで拡大)。

溜池は文字通り外堀の一部の溜池であったところを埋め立てた平地であり、池の中を歩いていると思えば、割と理路整然とした町割で切絵図でも迷うことはありません。

難儀なのは秋葉原です。
実は切絵図には秋葉原、アキバハラ、アキハバラも表記はありません(*’д’*)。そのような地名は無かったのです。

江戸切絵図に無い秋葉原という地名

明治二年(1872年)神田相生町一帯(千戸以上の家屋)は大火で焼け、空地が出来き、焼跡は火除地(秋葉ノ原)にされます。
そこに鎮火社を設け、火除けの神様「秋葉大権現」を祀ったのが地名の起こり。その空地に現在の秋葉原駅が出来たという歴史があります。以後、鉄道が縦横に発展してゆきます。

左:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より右:明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図より
左:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より鎮火社。右:明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図より(クリックで拡大)。
左:大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図より右:昭和3-11年(1928-36年)1万分の1地形図より
左:大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図より、右:昭和3-11年(1928-36年)1万分の1地形図より(クリックで拡大)。

入り組んだ鉄道

御茶ノ水聖橋上より
昇平坂と鉄道。御茶ノ水の聖橋上より。東京メトロ丸ノ内線とJRの立体交差。
淡路坂
淡路坂。

東京に住んでいるとはいえ、この光景は日常ではありません。
御茶ノ水から、江戸より変わらぬ昌平坂か淡路坂を下れば、秋葉原なのですが、交差する鉄道(JR京浜東北・山手線・総武線・東北、上越新幹線)のおかけで高架の鉄道を目印に行くと必ず、触覚のとれたアリ状態に陥ります。

また、駅前の電気街を貫く中央通りや、関東大震災後、後藤新平が作った新都市計画の一端である太い昭和通りがあり、多くの大交差点を作り、目が廻ってしまいます。

秋葉原中央通り
秋葉原中央通り。
秋葉原万世橋上より
秋葉原万世橋上より西方向。
万世橋上より別方向。
万世橋上より東方向。
昌平橋より総武線。
昌平橋より総武線を望む。
昌平橋より中央線。
昌平橋より中央線を望む。

当時、東大阪に住んだ司馬遼太郎先生も目が廻った一人のようです。

松本良順の西洋医学所は何処にあったか?

神田和泉橋
神田川に架かる和泉橋。

司馬遼太郎先生は小説「胡蝶の夢」の中で、余談として、松本良順の、神田和泉橋の西洋医学所の位置を探しに新幹線に揺られて来たが見つけられずに、「碑も立てられていなのである(中略)なんだかばかばかしくなって」神田佐久間町で蕎麦を食べて帰ったとあります (≧∇≦)。

新撰組(新選組)の近藤勇沖田総司らが治療を請うた松本良順の西洋医学所はどこにあったのか?こんなに変わってしまった秋葉原駅周辺で見つけるのは困難です。

都心の新撰組(近藤勇編)を参照
都心の新撰組(沖田総司編ー終焉の地は何処なのか?)を参照

司馬先生風に言えば「神田和泉橋、神田相生町は、まことに変わることを拒まない町である」です。

私が代わりに探し出しますよ!司馬先生(,,・`_´・)、キリッ。

西洋医学のタイムライン

西洋医学所は幕末の短い間に神田和泉橋通りに存在し、江戸城無血開城と同じく、幕府機関である西洋医学所も明け渡さなけれならなかったのです。

西洋医学所の祖は民営のお玉ヶ池種痘所にあり、官営(幕府営)、官営(新政府営)と発展し、現在の東京大学医学部の礎となっています。

安政五年(1858年) 5月、民間の種痘所、神田お玉ヶ池に開設。

お玉ヶ池種痘所の碑
お玉ヶ池種痘所の碑。
古地図:嘉永三年(1850年)尾張屋刊日本橋北内神田両国浜町明細絵図より千葉周作とお玉ヶ池。
古地図:嘉永三年(1850年)尾張屋刊日本橋北内神田両国浜町明細絵図より千葉周作お玉ヶ池(クリックで拡大)。

お玉ヶ池には、西洋医学の祖を示すために東京大学医学部が建てた碑があるので司馬先生も見つけた場所です。
ここにはかつて大きな池が存在していましたが、江戸時代中に埋め立てられ、お玉ヶ池の史跡はお玉稲荷とそのそばに申し訳程度の池があるのみです。

お玉稲荷

現在のお玉ヶ池

また、「お玉ヶ池の先生」と呼ばれた千葉周作の道場「玄武館道場」跡がありますが何も残っていません。

千葉周作玄武館道場跡
千葉周作玄武館道場跡。矢印から矢印の範囲。

しかしながら、この通りを坂本龍馬清川八郎山岡鉄舟などの幕末のビッグネームが闊歩していたと想像すると胸が熱くなります。

清川八郎、坂本龍馬、山岡鉄舟

想像力こそががお江戸歩きのコツ (≧∇≦)。

安政五年(1858年) 11月、神田相生町からの出火で種痘所が類焼する。伊東玄朴宅を臨時の種痘所として種痘業務を続ける。

古地図:嘉永四年(1851年)尾張屋刊江東都麻布絵図より伊藤玄朴。
古地図:嘉永四年(1851年)尾張屋刊江東都麻布絵図より伊藤玄朴(クリックで拡大)。
台東一丁目交差点
台東一丁目交差点。

もと伊東玄朴宅の近く、蔵前橋通り、昭和通りの交差する台東一丁目交差点に説明板があります。

安政六年(1859年) 7月、将軍家定の病状が重症化する。1849年より禁止されていた蘭方医術が解禁され、伊東玄朴らが奥医師となる。9月、下谷和泉橋通りに種痘所を再建する。

万延元年(1660年)7月、幕府からの公式な援助を得られることになる。10月 、幕府官立の種痘所となる。

文久元年(1861年)3月、種痘奨励のため「種痘諭文」を発行する。

官営種痘所開設のチラシ
官営種痘所開設のチラシ。

種痘を奨励のために幕府が「種痘諭文」というチラシを作っていて、これには誰でも種痘所に来れるようにと、地図(北が下)が載っています。

文久三年(1863年) 2月、医学所と改称。7月、三代目頭取に松本良順。

古地図:文久二年(1862年)尾張屋刊東都下谷絵図より伊藤玄朴と種痘所。
古地図:文久二年(1862年)尾張屋刊東都下谷絵図より伊藤玄朴種痘所(クリックで拡大)。

良順が頭取になる一年前の文久二年(1862年)の切絵図に、種痘所が現れます。

種痘諭文の地図も参考にすると、藤堂和泉守上屋敷の北側、今の住所で言うと台東区一丁目30、28辺りです。
司馬先生、この辺りです。

西洋医学所跡

碑も説明板もなく、司馬先生が呆れるのも無理はありません。

前左)松本良順、(前右)師のポンペ
(前左)松本良順(前右)師のポンペ。

小説「胡蝶の夢」の中では、ここで良順はオランダ軍軍医、師のポンペからいただいた西洋医学のシンボルともいえる頭蓋骨標本を弟子に手渡し、今戸へと向かいます。

のちの戊辰戦争へと、軍医としての戦に歩みだして行きます。

西洋医学所跡

探してもさがしても、痕跡は何一つありませんが、ここに近藤勇沖田総司が訪ねてきたのかと想像し、敗者の歴史は消えてゆくものだと思うと、少しだけ涙します。

古地図:明治2年(1869年)東京全図より医学校兼病院。
古地図:明治2年(1869年)東京全図より医学校兼病院

明治二年の地図では、もぬけの殻となった藤堂和泉守上屋敷跡に「医学校兼病院」とあります。
YKK80ビル(もと藤堂和泉守上屋敷)の裏手に大きな三井記念病院があり西洋医学の血筋は今も途絶えていません。

YKK80ビル
YKK80ビル。
YKK80ビル前の看板
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三井記念病院
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三井記念病院
三井記念病院。

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