新選組一番隊隊長及び撃剣師範、近藤勇もその腕にはかなわなかった剣の達人、美男剣士と伝えらている沖田総司の生年は確かではありません。天保十三年(1842年)とも天保十五年(1844年)生まれとも。
生まれた場所は今の西麻布と云われています。都心中の都心です。史跡を訪ねると、そこは六本木ヒルズ近く(*’д’*)。


テレビ朝日通りの奥まったところに沖田総司ゆかりの桜田神社はあります。
桜田神社
桜田神社周辺にはかつて陸奥白河藩阿部播磨守下屋敷があり、沖田総司はこの屋敷の長屋で生まれ、母に連れられこの神社に初参りしたと伝わります。
桜田?あの桜田門外の変の?と思い調べて見ると、
治承四年(1180年)源頼朝の令により霞山桜田明神として霞ヶ関桜田門外に鎮座。寛永元年(1624年)には現在の場所に遷られた。文治五年(1189年)頼朝公が30貫の田畑を寄進、一般農家の田と区別するため、御神田の畔に桜を植えたのが「桜田」の由来という。 東京都神社庁
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霞ヶ関から麻布へ遷座ということは、桜田門より古く、桜田の名のルーツはこちらでした。
古地図を見ると、表通りから参道が伸び、奥まったところに位置していて、今と同じです。
総司は、この地から幕末の嵐の中へ飛び込んで行きます。
幕府軍の敗走と労咳の悪化
新選組は京都で活躍し、名を馳せたのはご存知の通り。
諸説ありますが、総司は元治元年(1864年)6月5日、池田屋事件で倒れ(永倉新八「新選組顛末記」に持病の肺患が再発とあります)戦線を離脱。以後、労咳(肺結核)の病状は悪化していきます。
新選組のいる幕府軍は、鳥羽伏見の戦いで敗れ、慶応四年・明治元年(1868年)1月10日、幕府の軍艦(富士山丸、順動丸)に分乗し江戸へと敗走。
銃弾を受け重症の近藤勇と労咳の総司は、1月15日、幕府御典医・松本良順のいる神田和泉橋の西洋医学所に頼りますが、2月上旬になると、新政府軍が江戸へと接近。
西洋医学所は閉鎖、今戸の称福寺へと移ります。


時はすでに、江戸城無血開城直前。風雲急を告げ、新政府軍の追手を逃れるために今戸へ……
なんでまた人気の多い浅草裏手の今戸に?。
神田和泉橋から船で負傷兵・病人を運べる利点はあります。がしかし、すぐに行方が判明してしまいそうですが?。
そのわけは古地図を見ると理解できます。
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穢多村
松本良順は、当時、今戸八幡と呼ばれていた今戸神社(古地図紫矢印)に寓居、身を隠し、野戦病院となる称福寺(古地図緑矢印)に通いつめます。
八幡と称福寺の上の広い地域に穢多村(古地図青矢印)が存在します。実はこの穢多村が大きく関係しているのです。
ここでは多くを語りませんが、穢多村の穢多とは、江戸時代の被差別階級のことで、主に動物の殺生をする人々のことを指します。
殺生とはいえ、武士にとっても武具に必要な革製品。その牛革・馬革などの製造販売特権を与えられ、それなりの財力はありましたが、身分的は士農工商の下です。

松本良順の弟子に穢多身分の者がいて、うちの棟梁の下痢が治らないというので、穢多棟梁十三代目・矢野弾左衛門(浅草弾左衛門)を診察したというのが事の始まり。
将軍の脈を診るような御典医が診察してくれるというので、弾左衛門は喜びますが、良順には思惑がありました。
弾左衛門は関八州、関東以北に大きな勢力を持つ棟梁(一説には大名クラス)です。良順は弾左衛門に「薩長に味方するなよ」と念を押し、以後の戊辰戦争の布石を打ちます。
弾左衛門の方は、幕府軍支援、戦争資金の用立てと引き換えに穢多の身分格上げを要求します。
かくして両者の利害は一致し、幕府軍に協力し隠れる場所を提供、そして匿い、維新後の戦の道へと歩みだします。
沖田総司の終焉の地は何処なのか?
永倉新八が晩年に残した「同志連名記」に、総司は「浅草今戸の松本良順先生宿にて病死」とあり、今戸神社が沖田総司終焉の地とされる根拠になっています。
そう思った方が筋が通っていますが……。

しかし、新選組の金銭出納帳に慶応四年・明治元年(1868年)二月二十八日「十両沖田渡」とあります(*’д’*)。
死期が迫ったこの頃、もう幕府軍についていく体力もなく、隔離・転地療養を試みたのではないかと思われる節もあるのです。
千駄ヶ谷池尻橋の植木屋の離れ
子母澤寛著「新選組遺聞」の中に、近藤勇の娘婿、近藤勇五郎の談話として、総司は千駄ヶ谷池尻橋の植木屋「植甚」の柴田平五郎宅、川のそばの離れに匿われていたと(*’д’*)。
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切絵図「内藤新宿千駄ヶ谷図」の端には、「池尻ト云」「植木ヤ」の表記があり、穏やかな田園風景が想像できます。
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明治16年(1883年)測量の5千分の1東京図測量原図には、母屋と川の近くに小屋(青矢印)が確認できます。近藤勇五郎が言っていた「離れは八〜十畳ほどの広さ」とも一致します。
ここは今の住所で言うと新宿区大京町29です。
外苑西通りの緩やかな名もなき坂道を下り大京町交番前、その場所に行ってみると「伝・沖田総司逝去の地」という説明板があります。

「伝」とついているのは確証がとれないという意味です。
そばには、川底だったであろう深い所もあり、後ろには新宿御苑の杜が広がっています。

こちらの方が沖田総司終焉の地にふさわしい寂しさを含み持っています。
総司を匿うため機密にされ、人知れず駕籠にゆられて千駄ヶ谷に転地。永倉新八には「病死した」と告げたのかも知れません。
総司、慶応四年・明治元年5月30日(1868年7月19日)死去。
享年24とも25とも27とも。
4月25日、板橋刑場の露と消えた近藤勇のことも知らずに。
総司最後の言葉は「婆さんや、いつもの黒猫はもう来たかい?」と伝わっています。
都心の新選組(近藤勇編)を参照
専称寺「沖田総司忌」
総司の墓は桜田神社から110mほど南の専称寺にあります。
墓石を削り持ち帰るなどの心ないファンも多く、普段は非公開。沖田総司忌の日、二時間だけ公開されています。
朝10時に行くと専称寺脇の私道の方に100m弱の行列。
お墓への入口には「涅槃城」の扁額。
新撰組のコスプレは禁止。写真撮影はお参りを終え後方に下がってから。

本堂ではご焼香ができます。
総司は短い生涯を激しく燃え、六本木に戻り眠っています。
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