金剛寺は丸の内線の開通によって中野区に移転、坂名だけの金剛寺坂。お寺も無いし、無味無臭なつまらない坂かと思ってましたが、江戸切絵図をみると、なんじゃ、これ?と思う不思議なものが多く、文豪、知識人の香りも漂っています。
永井荷風先生は金剛寺坂を下り、800メートル西の服部坂の黒田小学校に通っていました。
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金剛寺と金剛寺坂は、今は金富(かなとみ)小学校の敷地になっているエリアで、金富の金だけに金剛寺の面影が残っています。(旧町名は金富町、金剛寺の金と冨坂、富坂新町の富をとって金富町)江戸名所図会をみると金剛寺の大きな伽藍が想像できます。右端に金剛寺坂が少しだけ描かれています。

370年前の地図でも金剛寺脇に金剛寺坂が確認できます。

元禄期の地図では金剛寺坂はもちろんのこと、神田上水に掛かる橋も描かれています。
かなり古くからある坂でカーブも今と同じように、ゆるく曲がっています。

明治の散歩マニア 文豪 永井荷風の生誕の地
金剛寺坂を登って丸の内線の橋を渡り、右手は永井荷風の生誕の地跡で文京区の説明板が建っています。文京区春日二丁目20番25号(旧金富町45番地)あたりって、どこからどこまでなんだ?と思って、明治の地図、説明板に書いてある荷風先生の作品「狐」で調べることに。

永井荷風生育地 (文京区春日2-20-25あたり) 永井荷風(1879-1959)小説家、随筆家。本名壮吉。別号断腸亭主人など。 作品には『あめりか物語』、『腕くらべ』、『墨東綺譚』や『断腸亭日乗』などがある。 荷風は、明治12年(1879)12月、すぐ左の細い道の左側20番25号あたり(旧金富町45番地)で生まれた。そして、明治26年飯田町に移るまで、約13年間住んだ。(その間1年ほど麹町の官舎へ) 明治19年には、黒田小学校(現区立五中の地)に入学し4年で卒業して旧竹早町の師範学校附属小学校に入った。 『狐』(明治42年作)という作品に、生家の思い出がつづられている。 「旧幕の御家人や旗本の空屋敷が其処此処に売り物になっていたのをば、其の頃私の父は三軒ほど一まとめに買ひ占め、古びた庭園の木立をそのままに広い邸宅を新築した。」 小石川は、荷風の生まれ育った地で愛着が深く、明治41年に外国から帰ってくると、このあたりを訪ねて『伝通院』を書いた。「私の幼い時の幸福なる記憶も此の伝通院の古刹を中心として、常に其の周囲を離れぬのである」とある。 文京区教育委員会 平成5年3月
短編自伝的小説「狐」から探る
永井荷風の生家の大きさ
子供の頃の思い出を語った短編自伝的小説「狐」。この中で、明治8〜9年ころ、旧幕府の御家人、 旗本の空屋敷3軒ほどの広大な土地を買い、崖上に屋敷を建て、崖下の低い土地は荒れるがままに放っておいたと。

なぜかというと
「父は崖下へ貸長屋でも建てられて、汚い瓦屋根だの、日に干す洗濯物なぞ見せつけられては困る。買占めて空庭にして置けば閑静でよい 」
と作品の中で言っています。
「狐」はその空庭に住みついて、荷風少年が大事に世話をしていたニワトリを食べてしまうのです。大人たちはこれ一大事となり、父は弓矢、書生は家にあった鉄砲、使用人は天秤棒、鳶の棟梁も鳶口を持って登場し、
「へえッ、飛んでもねえ。狐がお屋敷の雞をとったんでげすって。御維新此方ア、物騒でげすよ。お稲荷様も御扶持放れで、油揚の臭一つかげねえもんだから、お屋敷へ迷込んだげす。訳ア御わせん。手前達でしめっちまいやしょう。」
と、てんやわんやの騒ぎの末に狐を仕留めます。
大人たちは狩りの成功を祝うパーティーで飲もうとなったが、ツマミが無い、、、ならば庭のニワトリを食べましょうとなり、ニワトリを2羽をしめて宴会が始まる、、、荷風少年は大人の身勝手さ、エゴを感じてしまうという、なんとも皮肉な少年時代の思い出を描いています。
ピヨピヨ鳴くのを毎日学校の帰りに餌をやっていたのに、と純な子供心も見せています。
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話はそれましたが、旧幕府の御家人、 旗本の空屋敷3軒ほど、という情報と「狐」の描写をヒントに切絵図でみるとブルーエリアのあたり。等高線のある明治の地図をみると崖上、買い占めて空庭にしていた崖下のあるところはブルーエリアです(冨坂新町も買っています)。明治の地図のブルーエリアの崖上の住居が荷風先生の生家に間違いないでしょう。この崖なら狐が住んでもおかしくないです。

広い家です。お父さんは明治政府の官僚だったそうです。
今の丸ノ内線が走るエリアがグリーンの帯です。金剛寺がすっぽり含まれてしまうのがわかります。
余談ですが、冨坂新町、冨坂の冨は鳶から来ているといいます。小説に登場する鳶の棟梁のおかげで本当に鳶職が多く住んでいたのだと納得。
川口アパートメント
現在の永井荷風の生育地跡のトイメンにある川口アパートメントは、あの川口浩のお父さん、川口松太郎が建てた自宅兼高級アパートです。過去の住人には、水谷八重子、加賀まりこ、千葉真一、野際陽子夫妻などが有名芸能人が多く、我らが川口浩隊長はここから、ジャングルへと旅立ち、アナコンダと戦い、ピラニアに指を噛まれ、遂には時計の跡がある未開の原住民を発見するのでした (≧∇≦)。

なんじゃ、これ?
切絵図にある陸にある赤子橋?
切絵図をみて気になるのが「アカコバシ」。この崖上で橋ってなにっ?と思うんですが、江戸時代の「御府内備考」という観光スポット案内に説明があり、要約すると、
「この橋は、石を三枚並べた小さなものであった。名のいわれは、このあたりにむかし御駕(おかご)衆の拝領地があり、御駕橋を赤子橋と言い誤ったのか、橋の上に赤子が捨ててあったからか」
と言っています、なるほど。
明治の地図には橋の表示は無いですが、永井荷風先生の生家の隣にきつい等高線があり、この坂(赤いライン)は切り通しだとわかります。開削によって湧水があったのでしょうか?
切絵図では太田平左衛門屋敷と中川佐平太屋敷の間に掛かっているので、切り通しでできた左右の崖に掛けた橋(下は川ではなく道)と考えたほうがいいのでしょうか?まさになんじゃ、これ?です。


なんじゃ、これ?
陸尺町って?
切絵図の右上にある「陸尺町」(りくしゃくまち)って現町名にもないし、聞きなれない名前ですが?。赤子橋を調べていてピーンときました。陸尺(六尺)とは、籠カキ(籠を担ぐ人)のことなのです。赤子橋で言っている御駕(おかご)衆の拝領地ってここのことなんですよ。今でいうとハイヤー配送センター。江戸期の巣鴨には巣鴨お籠町というのもあります。
籠を担ぐ人は力持ちなので「力者」、りきしゃが訛って陸尺(六尺)。訛り方が、なんか無理があるように感じます。
わたくし的に考察すると、時代劇に出でくる籠カキってフンドシ姿です。六尺フンドシをしめていたので「六尺」?または前後で担いでいる棒の長さが「六尺」(180cm)?と妄想せずにはおれません。
しかしながら、六尺町と言ってしまうと六尺フンドシを連想してしまう。陸尺町と言えば、陸上交通の意味が出てくるし、いいネーニングだと思います。お江戸の知恵ですかね。
なんじゃ、これ?
文京区の鶯谷?
鶯谷といえば上野駅の次の駅ですが、かつて文京区にも鶯谷があったというと殆どの人の反応は、はあぁ?です。
切絵図で「明地(空地)此下ヲウクヒスタニト云」とあります。
今は丸の内線が通り、鶯谷は消滅していますが、江戸の文化文政期に、文人、狂歌師の大田南畝が住んでいました。崖上は眺望が良く、ウグイスが遊びに来て鳴くほど風光明媚だったといいます。大田南畝はエリート官僚としても名を残していて、なかなか幕府が屋敷を拝領してくれないので、しびれを切らし、ここに、ローンで家を購入したと。高台で家の南側が谷で日当たり良好。ナイスなビュウの物件、多くの文人が通ったと思われ、丸の内線を見ていても、そんなことを想像するとニヤリとしてしまいます。
明治の地図でみると矢印の部分、すごい崖と谷がみてとれます。




今に残された鶯谷エリアの無名の階段坂は、大正時代の地図に現れます。この坂、東京の坂とは思えない味があります。まるで尾道あたりの坂のような風貌です。
金剛寺坂 江戸時代、この坂の西側、金富小学校寄りに金剛寺という禅寺があった。 この寺のわきにある坂道なので、この名がついた。小石川台地から、神田上水が流れていた水道通り(巻石通り)に下る坂の一つである。 この坂の東寄り(現・春日2-20-25あたり)で、明治12年に生まれ、少年時代をすごした永井荷風は、当時の「黒田小学校」(現在の旧第五中学校のある所、昭和20年廃校)に、この坂を通っていた。 荷風は、昭和16年ひさしぶりにこの坂を訪ずれ、むかしを懐しんでいる様子を日記に記している。 東京都文京区教育委員会 平成元年3月
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