夏目坂

夏目坂と漱石先生と堀部安兵衛

夏目漱石家紋夏目漱石先生の誕生の地の前の坂、夏目坂。この坂、漱石先生の父、直克が命名した坂名だといいます。

代々夏目家は新宿区喜久井町の名主だったとかで喜久井町の名も夏目家の家紋、菊に井桁からとって、き・く・い・まち。坂名、町名までも自分のものにしてしまう豪快さがあります。

夏目家はずいぶんと裕福だったらしく、漱石先生も生活苦など微塵もありません。漱石先生と早稲田田圃あたりを散歩した正岡子規先生は、お米というものは稲の実だということを漱石は知らなかったと書いているくらいです。

夏目漱石誕生の地の碑
夏目漱石誕生の地の碑

夏目家の隣の小倉屋酒店

明治初年、夏目家のお隣さん、小倉屋酒店に強盗が入ったと。店主の半兵衛さんはウチにはお金がないので夏目さんちに行きなさいと言い張って、強盗は言われるがまま、夏目家に押し入った。

漱石先生の父、直克は、しぶしぶお金を出したという話が残っています。(漱石先生の小説、「硝子戸の中」より)

小倉屋の隣が漱石先生誕生の地
小倉屋の隣が漱石先生誕生の地

また、小倉屋酒店で有名な逸話は堀部安兵衛(当時は中山安兵衛)が高田の馬場の決闘前に力水ならぬ力酒で気合を入れたということ。本当でしょうか?古地図で調べてみることに。

古い地図で見ると

正保年間(1645年から1648年)の古い地図を見ると、お江戸開幕の間もないころとあって、坂名、町名がない省略やデフォルメも激しいけど、もうすでに夏目坂らしき道は描かれています。高田の馬場がまだ工事中のような形になっているのが面白いです。

古地図:正保年中(1645-1648年)江戸絵図(市ヶ谷牛込)
正保年中(1645-1648年)江戸絵図(市ヶ谷牛込周辺)クリックで拡大

新版江戸大絵図

安兵衛が活躍する元禄時代(1688年から1704年)のチョイ前の寛文10-13年(1670-73)新版江戸大絵図という地図をみると、町名も明記され、だいぶ正確な地図になってます。

高田の馬場がクッキリと出来ていて、わせだ、漱石先生誕生の地である馬場下横町(馬バ下ヨコ丁)の表示もあります。
(クリックで拡大してみると詳細がわかります)
だいぶ今の地図に近いです。

古地図:新版江戸大絵図寛文10-13年(1670-73)
新版江戸大絵図寛文10-13年(1670-73) クリックで拡大

安兵衛は当時、市ヶ谷の御納戸町に住んでいたのでこの地図でいうとB地点にあたります。義理の叔父さん、菅野六郎左衛門は松平家家臣で大名屋敷内(今の自衛隊市ヶ谷駐屯地)の長屋に住んでいたというのでA地点あたりだと想像できます。

講談の安兵衛では八丁堀から高田の馬場まで走ることになっていますが、これは全くのフィクションです。

安兵衛は、忠臣蔵四十七士の堀部弥兵衛に見初められ、堀部家に婿入りしてから八丁堀に住みます。

高田の馬場の決闘当時は、婿入り前で独身、名前も中山安兵衛、住まいも市ヶ谷の浄瑠璃坂の坂上の御納戸町でした。

因みに八丁堀からだと13キロ強ランです。最短ルートでも江戸城の外堀をぐるっと周り、神楽坂入口から今の早稲田通りを駆け上り、馬場下に下りてきて、小倉屋にて升酒で一服休憩。。。
なっなんて、すんごい盛ってる話になっちゃてます。
ただ神楽坂方面から来ても、市ヶ谷方面から来ても交差点にある小倉屋(地図上の緑)は通るので講談の話とも、つじつまが合っちゃってます。

夏目坂と早稲田通り
夏目坂と早稲田通りの交差点にある小倉屋酒店

高田の馬場決闘の事件調書が細川家に残っていて、安兵衛は「叔父さんたち(叔父さんと草履持ちたち)と一緒に歩いて高田の馬場へ行った」と言っています。

これが本当だとすると、市ヶ谷方面から高田の馬場へ行くには夏目坂を下りて行った公算が非常に強いです(近道ですから)。

そして、小倉屋で、夏目家の隣で、力酒による気合を入れたことは十分考えられます。

かなり史実に近い考察だと思うんですが。ただ、叔父さんが酒を飲んでない?叔父さんは下戸だったのでしょうか?

古写真:菊人形(高田の馬場の決闘)
古写真:菊人形(高田の馬場の決闘)

余談ですが、JR高田馬場駅と高田の馬場跡はメチャ離れています。JR駅のあるところは、もとは戸塚という地名でした。戸塚では東海道線の戸塚があるので紛らわしい。

別の名で近所の有名なスポットはどこ?ということで駅名が高田馬場になってしまったと。少し遠いけど、まぁ良いかっという大らかさがあります。

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