東京の坂道ランキングではいつも上位にくる湯立坂。戦後の区画整備を免れたので緩やかなS字カーブを持つことで情緒が生まれています。教育の森公園の木々の緑の脇を通り、石垣も多く、坂の中腹には重要文化財の銅(あかがね)御殿、元大名屋敷の庭園、占春園もあり、雰囲気を盛り上げています。
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坂下の千川通りは暗渠で、中世のころは海の入江だったところです。千川通りを入江と見立てると、対岸には、白山の網干坂がありますので海の入江だったことは間違いないです。また坂下のある公園の名前は窪町東公園。旧町名からしても坂下は、窪地だったことがうかがえます。

文京区には、もう一つ、牛天神の網干坂もあり、谷の部分は入江だったところが多いのです。この入江や窪地が湯立坂という名前に関係しています。
湯立坂の由来について
坂上の教育の森公園入口脇に,文京区が設置した標識があります。
湯立坂 ゆたてざか 「里人の説に 往古はこの坂の下は大河の入江にて 氷川の明神へは河を隔てて渡ることを得ず。 故に此所の氏子ども 此坂にて湯花を奉りしより 坂の名となれり。」 (江戸志) 武蔵風土記には, このあたりのことを簸川原とあり, アユ,ウナギそしてセリなどのとれる所としている。 事実小石河(千川とも後年云う)が流れていた。 我方(わがかた)を 思ひふかめて 小石河 いづこを瀬とか こひ渡るらむ 道興准皇「廻国雑記」 (文明18年(1484年)6月より3月までの北陸,関東,奥州諸国の遊歴見記)より。 文京区 昭和48年3月
この坂下には千川があり、氷川(今は簸川)神社に渡ることができなかったので,神社の氏子は川の手前で湯花を捧げたため,この名がついたと。

しかしながら、入江があったとしても、そこに流れ込む川には橋があったはずで、少し遠回りすれば向こう側へは渡れます。どうもおかしい?
一説に、むかし氷川神社の氏子衆は氏子意識が強くて、よそものは入れない。なので氏子以外はこの坂でお湯を沸かし(湯立をし)お茶を飲みながら対岸の氷川神社の桜(花)を愛でたと聞いたことがあります。
湯立、湯花の話もこの説のほうがわかりやすく、しっくりきますが、地域エゴはいかんと言うことでしょうか?文京区はこの説を採用しないのが当然ですね。いまの簸川神社はだれでも参拝できるオープンな空間です。
湯花についての私論
湯花とは,湯の沸騰時に上がる泡のことで神社で巫女などがこれを笹の葉につけ,参詣人にかけ浄めたといいます。
沸騰はしてなくとも湯花らしきものは池にもあります。教育の森公園内の占春園はジャングルの様相で池の底からガスが噴き出し泡が立つことがあります。


ひょっとすると、湿地帯であったこの辺りはそんな湯花に似た光景が多く、このことを指しているのかも、と妄想しました。清らかな渓流であったとしても落ち込みでは泡立ちます。全くの自説ですが。
※ジャングルのような占春園は元の守山藩主松平家の中屋敷庭園跡ですが、筑波大学が管理し、自然観察の場としているので(自然のなすがままにしているので)ジャングルなのです。決して整備が行き届いていないわけではありません。
銅(あかがね)御殿
この坂で、もう一つ忘れてないけないのが国の重要文化財である銅御殿があり、枯れた味わいを醸し出しています(年数回の公開、申し込み制)。



門は砂浜を模してツルツルの石の通路。そして、檜一枚板の門扉。

門柱は石に嵌め込まれています。
門を入るとゴツゴツした路面。門前の砂浜イメージから、渓流のイメージに変わります。両脇の石垣は丈夫な組み方で、地震で崩れたことはないのですが、木の根が伸び、その力で崩れることがあるそうです。

大正初期の建築(大正2年(1913)竣工)、千葉の山林王、磯野敬が建てた耐震・耐火性を重視した近代和風住宅です。銅板を至るところに貼ったので、できた時は金ピカだったそうです。関東大震災、戦火も乗り越えた建築は、今でも細部まで歪みがないと云います。

車止めエントランスの柱はエンタシス。

エントランスの天井は寺社仏閣でもそうはない凝りようです。
磨くだけで何百万円もかかったという庭石。
細部まで銅貼り。銅御殿は文京区が誇る貴重な遺産です。
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