「紀尾井坂の変」が起きたのは清水谷ですが、なぜ、「清水谷の変」と呼ばないのでしょうか?
清らかな水の湧く谷「清水谷」。この地名は全国いたるところにあり、混乱を招く恐れがあります。
一方、「紀尾井坂」は、紀州、尾張、井伊彦根藩の中屋敷に囲まれていた稀有な環境の坂道。日本広しと云えども「紀尾井坂」はここだけです。「紀尾井坂の変」と言えば、間違いなくこの辺りを指すことになるです。
古地図で辿る大久保利通、最期のルート「紀尾井坂の変」と参照。
万治元年-(1858年)改 尾張屋刊江戸切絵図より紀尾井坂.jpg?resize=474%2C474&ssl=1)
紀州中屋敷跡は現・東京ガーデンテラス紀尾井町、清水谷公園。


尾張中屋敷跡は現・上智大学。

井伊中屋敷跡は現・ホテルニューオオタニ。

また切絵図で面白いのは現・清水谷公園のあるところ(赤矢印)にではなく、現・上智大学の裏の通りを「シミズダニ」と表記しています。
この上智大学の裏通りをまっすぐ行くと、なるほど、この坂道から清水谷は始まっているのだとわかります。
紀尾井坂と同じように三つの家からとった名前の坂道が近くにあります。
三べ坂
紀尾井坂に対抗したのか、安部・岡部・渡辺で「三辺坂」。
万治元年-(1858年)改 尾張屋刊江戸切絵図より三べ坂-1.jpg?resize=474%2C356&ssl=1)
江戸っ子らしい洒落たネーミングですが、「三辺坂」では「部」はどうなるか……部部辺坂のほうが良かったような?
それでは言いずらいこともあり、今では「三べ坂」とカナで表記しています。

山田浅右衛門がポッツンと?
また、幕末の切絵図をみていると、おもしろいことに気づきます。紀尾井坂を下り、清水谷坂を登り、まっすぐいくと町人地が続くのですが、町人地である平川町にポッツンと一軒のお武家が……。
万治元年-(1858年)改 尾張屋刊江戸切絵図より紀尾井坂と山田浅右衛門.jpg?resize=474%2C356&ssl=1)
「山田浅右衛門」の一軒だけが、四方を町人地で囲まれ真ん中に。なぜこんなことになっているのでしょうか?


徳川家刀剣類御様御用
山田浅右衛門(または山田朝右衛門)は、特別な家柄で、主君を持たない、どこにも組しない、いわゆる浪人の身分です。
がしかし、代々、役職があり、それは、将軍家の刀剣試し切り役、正規の役職「徳川家刀剣類御様(おためし)御用」。
どう試すのか?
そう、斬首の執行人なのです。
初代 | 山田浅右衛門貞武 |
二代 | 山田浅右衛門吉時 |
三代 | 山田浅右衛門吉継 |
四代 | 山田浅右衛門吉寛 |
五代 | 山田浅右衛門吉睦 |
六代 | 山田浅右衛門吉昌 |
七代 | 山田浅右衛門吉利 |
八代 | 山田浅右衛門吉豊 |
九代 | 山田浅右衛門吉亮 |
元禄のころから、この役に就いていたと云う一族です。
かといって、もらえる「試し切り料」は微々たるもの。
幕府から家禄をもらっていないわけで、何が収入源だったのでしょうか?
漢方薬⁈
執行後の遺体は彼のものとなり、各部位を漢方薬にして売っていたようです。
労咳(結核)に効くとされた「浅山丸」は有名でした。
「熊の胆」とかいうけど人間の部位が材料のものもあったのです。大悪人のものとなると「肝が据わってるっ!」と高値で取引されたそうな。でもなんだか効きそうに思えてくる畏怖の作用。
また、町道場も開いていて、勝海舟のお父さん、勝小吉が通っていたという話もあります。七代目吉利の頃のようです。
松陰を斬った七代目山田浅右衛門吉利
七代目の吉利は小伝馬町牢獄で、吉田松陰を斬っています。

松陰は、死の間際でも落ち着きはらい、役人に「ご苦労様」と挨拶して、毅然としていたと、のちに語っています。山田浅右衛門には辞世の句を理解できるよう文学の素養も必要とされていたようです。

松陰辞世の句 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

維新後の九代目山田浅右衛門吉亮
明治5年(1872年)牢獄は市ヶ谷に移ります。市ヶ谷監獄署の刑場があった場所に青峰観音というお地蔵さんが建っています。

現在地図と見比べると、青矢印が刑場のようです。


維新後も変わらず、斬首は行われていて、最後の首切り役人・九代目吉亮は「紀尾井坂の変」「赤坂喰違の変」の犯人も斬っています。
「赤坂喰違の変」の犯人九名は、1日で斬ったと云い、さすがに疲れると見え、刑のあった日は門人と呑み明かしたと云います(尋常な気持ちでいれるわけがありません)。
岩倉具視暗殺未遂事件「赤坂喰違の変」と、生き残った岩倉邸を参照。
高橋お伝
日本で最後に斬首に処せられたのは「毒婦・高橋お伝」と云われています。
講談話等では、あまりの色香漂ううなじに、浅右衛門の手許が狂い、仕損じてしまいます。それを恥じてこの職を辞めたと云うことになっていますが、実際には、明治13年(1880年)刑法により、残忍な斬首は廃止され絞首刑となっています。



高橋 お伝 1850~1879 嘉永3年、上野国前橋に生まれる。明治初期の稀代の悪婦として知られる。最初の夫、浪之助が悪病にかかり身体の自由を失ったのでこれを毒殺し、他の男のもとに走り、その後、各地を放浪しながら悪事を重ねた。明治9年、浅草蔵前の旅館丸竹で、古着屋後藤吉蔵をだまして殺害、所持金200両を持って逃走、京橋新富町で捕らえられ、同12年、30歳で死刑に処せられる。毒婦お伝の名は都下の新聞、仮名垣魯文のお伝一代記『高橋阿伝夜叉譚』などで有名になる。しかし、彼女は貧困と差別のうちに男に利用された気の毒な存在と見る見方も強まっている。碑は物語で利を得た魯文が世話人となって作られた。
小伝馬町、市ヶ谷、谷中霊園を訪ね、最後に、松陰を斬った七代目吉利の墓がある四谷の勝興寺に。
「第七世 浅右衛門吉年」となっています。明治17年( 1884年)没。仕事とはいえ松陰を斬った男。複雑な感情が芽生えてきます。
勝興寺すぐ近くに須賀神社があり、脇には最近、超有名になった坂があります。
「紀尾井坂の変」「赤坂喰違の変」「首切り浅」と重いお話が続きましたが、次はか〜るく。
「君の名は。」のラストシーン聖地巡礼と坂道の歴史ウンチクへと続く。
幕末・明治維新トップへ
新宿区の名坂トップへ
千代田区の名坂トップへ
紀尾井坂と松陰を斬った一族、首切り浅グーグルマップはこちら
または下記マップ右上の拡大表示ボタンをクリックしてグーグルマップでご覧ください。