明治初期の地図を眺めていて、ふと、目に入った「大久保邸」。
明治維新立役者の一人、内務卿・大久保利通邸は、潮見坂、三年坂を登りきった辺り、三年町裏霞が関にありました。

三年町の名は三年坂に由来し、この坂で転んだものは三年以内に死すと云う怖い坂щ(゚Д゚щ)。
大久保利通は転んだことがあったのでしょうか?


明治十一年(1878年)、邸宅から赤坂仮御所に向かう途中、清水谷の紀尾井坂下付近でテロに遭い、命を落とします。
世に云う「紀尾井坂の変」。「紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」とも云います。
皇居の火事が起きなかったら。
紀尾井坂の変が起きる5年前、明治六年(1873年)5月5日、皇居が焼失し、明治十一年頃、明治天皇は赤坂仮御所にお移りになられていました。火事が起きる前なら大久保利通は、桜田門から皇居に入ったはずです。

邸宅(A)から桜田門(B)ならば、テロは起こらなかったかもしれません。
なぜなら、このルートは、明治の元勲、華族の屋敷街(西郷邸などのビックネームがあります)、下士官要請施設である陸軍教導団(C、現・警視庁)参謀本部(D、現・憲政記念館)があり、物騒な維新後にあっても、最も安全な道の一つでした。二度と桜田門外の変は起きそうにありません。


皇居の火事が無かったら、大久保利通は襲われることは無かったのではないか?そう思わせる施設の配置です。
しかし皇居の火事は起き、防備の薄い道を行くことになります。
最期の出仕ルート
赤坂仮御所は今の迎賓館、赤坂御用地のあるところ。馬車でもほんの10分くらいの距離です。
赤坂仮御所東門(H)までのルートは以下の通り。

大久保利通邸の今の場所は?
古地図と現在地図を見比べ、大久保利通邸跡を目指します。
大久保利通邸があった場所は、今の内閣府辺りらしいです。


この周辺は否応もなくビッカビカの官庁街。
おまわりさんがたくさんいて、睨みを利かせています。

総理官邸前、財務省上交差点を過ぎ、邸宅跡へと進むと、
えっえーー!щ(゚Д゚щ)。雑草生え放題の古い石垣が!
官庁街のこの一角だけ、寂れた空気が漂います。不気味感満載!
古地図をみると屋敷の前に庭があり、西洋風の豪邸です。このことも不平士族に反感を持たれる一因になったと云われていますが、前庭部分は、今現在、閑散とした空地です。
邸宅の門(地図赤矢印)だった位置にゲートがあり、往時を想わせるには充分です。
そして屋敷は内閣府、衆議院第二別館辺り(写真青矢印)にあったようです。
明治十一年(1878年)5月14日朝、邸宅を出た二頭立の馬車は、コの字型に曲がり、茱萸坂を(青矢印)進みます。


出ました!難読坂名。
茱萸坂(ぐみざか)と読みます。皀角坂(さいかちざか)と並ぶ難読さです。
茱萸坂(ぐみざか) 永田町一丁目、国会議事堂の南側を東に下る坂です。その先は潮見坂に続きます。番付坂と呼ばれたこともあります。『新編江戸志』では「丹羽家表門見通し、内藤紀伊守殿本多伊勢守殿中屋敷の間、九鬼長門守殿屋敷の前に出る小坂なり。両側にぐみの木ありし故の名なり。」とあります。 『新撰東京名所図会』には、「永田町一丁目と三年町の間を清国公使館前に上る坂を呼ぶ。番付坂は茱萸坂の一名にして、昔時山王の祭礼には、必ず此ところにて、花車の番付札ありて其の行列をあらためしよりいう。」とあります。
ルートの説明にもどって。
茱萸坂突き当りの清国公使館(現・内閣総理大臣公邸、衆議院第一議員会館)を右折。


気にせず、現・国会議事堂の裏の通り(古地図赤矢印)をやや行き、


この辺りで写真を撮っていると、なにやら不審に思ったおまわりさんが近づいてきます。ついにキタぁ「職務質問」!

「何されてるんですか?」
私は後方のビルを指差し、
「いやね〜、あそこが大久保利通邸だったって知ってます?」
想定外の返答に戸惑うおまわりさん。
「知りません、そうなんですかぁ」
「古地図を見ながらチャリってるんですよぉ」
「そうですかぁ、お気をつけて(^_^;」
そんなに私は不審人物に見えるのでしょうか?と心配になりますが、私はテロリストではありません、よくいる古地図好きの一市民です(よくはいないかもぉ)。お仕事ご苦労様ですm(_ _)m。
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今では太い国道246号線(通称ニーヨンロク)をやや行くと旧道(古地図緑矢印)があるので、そちらに折れます。
やや行って三べ坂(古地図C)へ右折、登りきると、赤坂御門(赤坂見附)が見えてきます。





なぜ、赤坂見附を通らなかったのか?
赤坂見附の枡形を抜け、大きな土橋(D)を下り、紀伊國坂(I)を登り、赤坂仮御所東門(H)を目指したほうが、どうみても近道です。
が、なぜか、馬車は、赤坂見附を迂回して清水谷へ向かいます。


なぜ、赤坂見附を通らなかったか?これには二つの説があって、ただ単に清水谷が好きだったからというのと、赤坂見附通りの人通りを、避けたと云う説。
古地図、古写真では赤坂見附を下ると多数の民家(青矢印)がひしめき、交通事故や暴漢が飛び出す危険性もあります。

一方、清水谷(F)の通りは皇室の御用地で、ひと気も少なそうです。
古地図、古写真をみるかぎり、赤坂見附通り危険説に軍配が上がりそうですが、人通りを避けた、そのことがかえって悲運を招きます。
大久保利通は清水谷ルートを行く。
赤坂見附を迂回して細道(E)を下り、清水谷(F)から、紀尾井坂(G)を登り、堀を越えれば、赤坂仮御所の東門(H)が見えてきます。
近年、Eの細道は東京ガーデンテラス紀尾井町内の階段として復活しています。
地図でみると標高差約10mを下ります。
それにしても坂が多い(*´Д`*) 〜з
これが東京の特徴です。



明治十一年(1878年)5月14日、どんよりした曇り空。
この日、彼は紀尾井坂を登ることができませんでした。
事件は清水谷で起こった!
大久保利通と車夫、従者の乗る二頭立馬車の一行は、清水谷を降りきります。すると、道に、摘んだような花を持つ書生風の男が二人立っています。
馬車は二人をやり過ごし進むと、森の奥から花を持った別の二人が現れ、道をふさぎます。従者が馬車を降り、退くように頼むと、次の瞬間、隠し持っていた短刀が馬の足に!。

これを合図に潜んでいた二人も現れ、計六人の不平士族に囲まれてしまいます。
危機を察した車夫は馬車を走らせようとしますが、斬られた一頭がへたり込み、進むことができません。従者も斬りつけられますが、間一髪逃れ、近くの北白川宮邸に助けを求めに走ります。
残された車夫は斬られ、大久保利通は「無礼者!」と一喝するも、馬車から引きずり出されてしまいます。
16箇所の傷、喉に突き刺された短刀は地面にまで到達していたと云う悲惨な最期でした。

ここに薩摩の二つの星の一つ、大久保一蔵は、西郷さんを追うように、堕ちてしまいます。享年49歳。
彼の死後、残ったのは借金の山。
国のために必要な金を、私財を投げ打って集めていたと云い、遺族への返済要求は、一つもなかったと云います。
本物の政治家でした。
清水谷公園
ところで暴漢が摘んだ花は何だったのでしょうか?
今では、ビルに囲まれわからないのですが、ここが深い渓谷だと教えてくれる清水谷公園の地形。
都会とは思えない光景です。
ここには山岳地帯で見るような可憐なスミレが木々の下に自生していました。
紀尾井坂を登った喰違見附でも事件が起きています。
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