都心の平地に突き出た山、愛宕山は、その高さという地形的性格から、観光地であり、信仰の地であり、測量、放送などにも利用され、産業遺産も盛りだくさん。


愛宕山(標高25.7m)は東京23区内で一番高い自然の山です。
なぜ、自然の山とわざわざ言うのか?
それは自然でない人工の築山、箱根山(標高44.6m)があるからです。

山上の愛宕神社は火伏せ、防火の神として信仰を集めました。
また、眺望が良く、江戸湾の水平線まで望めたと云います。行楽地として江戸の民に愛され、近代ではその高さから測量地点として利用されてきました。
愛宕山のビックリ測量遺産を参照
愛宕山の出世の石段
愛宕神社の男坂は「出世の石段」と呼ばれています。

この急坂を馬に乗って駆け上がるとは信じられません。
子供もコケています (≧∇≦)。

寛永十一年(1634年)徳川家光公が山上に咲く梅を見て、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣、曲垣平九郎が見事成功!。全国にその名を轟かせたと云います。
その後、成功したのは5〜6人と云われています。
文政十三年(1830年)発行の「嬉遊笑覧」という本に、備前藩士、森彦三が成功とありますが、いつ成功したのか明記がなく確証のない話です(「嬉遊笑覧」という題名ですから(笑))。
嘉永七年(1854年)稲葉家家臣、雄嶋勝吉の記録
明治六年(1873年)東京蔵前片町の石井清三郎の記録
も確証がありません。
「芝区史」にある信頼できる記録は
明治十五年(1882年)曲馬師、石川清馬。
大正十四年(1925年)陸軍参謀本部馬丁、岩木利夫。
そして近年、TV番組で挑戦した
昭和五十七年(1982年)スタントマン、渡辺隆馬。
曲垣平九郎以降、確かな記録は、明治・大正・昭和と、ずいぶんと時代が離れています。なぜでしょうか(?_?)
江戸時代は68段、今は86段
江戸時代のどの記録を見ても石段の数は68段と云っています。現在86段ですので江戸時代は一段の高さがもっと高かったことになります。しかも、サラブレットではなく、小さい馬だったことでしょう。
そう思うと、曲垣平九郎は実在の人物ですが、この話は伝説だったのか?
平九郎の名誉にために信じます。その方が楽しいし(^^*)。
愛宕山は古写真の宝庫
東京の真ん中の観光地ゆえに、絵葉書・古写真が多く残っています。
幕末、明治初期の写真黎明期に活躍したフェリーチェ・ベアト(1832年ー1909年)は愛宕山から江戸の香りが残る街のパノラマ写真を撮っています。


手前の長屋塀は越後長岡藩牧野家の中屋敷(古地図A)。その右、木々の向こうに大和小泉片桐家上屋敷(B)。
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今となってはビルに囲まれ、見通しも効きません。

愛宕山の愛宕塔
明治初期の地図で愛宕山は標高25.93mとなっていますが、もっと高くと思ってしまうのが人の欲というものです。

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明治後期になると、塔の記号(赤矢印)が現れます。

明治二十二年(1889年)、展望タワー「愛宕塔」ができ、この通りの奥には昭和五年(1930 年)、愛宕山トンネルが開通します。

愛宕塔があったところには、大正十四年(1925年)、現NHKの東京放送局(JOAK)が建設され、ラジオ放送が開始されます。

山頂にあの浪士十八人が集結
安政七年三月三日(新暦1860年3月24日)雪の朝、桜田門外の変を起こした十八人は、ここ愛宕山の茶店に集結、身支度を整えています。



この山頂で江戸城桜田門方面を眺めたことでしょう。
出世の石段を登り「出世」を夢見たのでしょうか?
出世せずとも世の中は変わると思ったのでしょうか?
愛宕山を降り、江戸城下の大名行列を見物しに行けば、人目には江戸見物に来たグループと思えるでしょう。
十八人は、巧みに観光客を装い、桜田門外へと向かうのでした。
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