三宅坂の小高い丘の憲政記念館(井伊彦根藩邸跡)から桜田門を見ると。この約550メートルの短い距離の間で「桜田門外の変」が起きたと思うと、感慨深いものがあります。

桜田門外之変図
襲撃グループの一人、蓮田市五郎は事件後、傷を負いながらも老中脇坂中務大輔邸に趣意書を持って自訴(自首)。
その後、細川越中守邸お預けになっている間に、請われて描いたという絵巻が残っています。

井伊彦根藩邸から桜田門外までの事件を生々しく描いています。

井伊彦根藩邸は今の憲政記念館、国会議事堂前庭の一部を含む広大な一等地に位置していました。

井伊彦根藩邸の名残り
憲政記念館に入ってすぐ、枯葉のゴミ箱?と思ってしまうものがあります。これは「桜の井」の遺構。
井伊彦根藩邸時代には門前にあり、「柳の井」と並んで名水と呼ばれ、旅人の喉を潤したと云います。


古写真にも写っていて、道路工事の際、移設されたものだということがわかります。
憲政記念館中庭の石灯籠は?
他にも井伊彦根藩邸時代のものはないかと探すと……
この石灯篭は藩邸時代の遺物なのか?
年号が入っていないので、千代田区観光協会、憲政記念館に問い合わせると……
「昭和48年、衆議院議員宿舎で余ったものを移設」と丁寧に教えてくれました。ありがとうございました。
時代ものではなかった囧rz。
井伊彦根藩邸時代のものは「桜の井」の遺構しかないようです。

安政七年(1860年)三月三日、赤い門を出て、緩やかに下り、桜田門から登城しようとする大老井伊直弼の行列があったのです。

絵巻、古地図で検証
桜田門外の変の時代背景、経緯は歴史好きの皆さんの方が詳しいと思いますので、残された絵巻、古地図で検証します。

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通りの濠側に二つの番所(A,B)があり古地図と一致します。
桜田門の対面に二つの門(C,D)があり、古地図の屋敷区分から見ると、松平市正上屋敷の表門と松平安芸守上屋敷の裏門のようです。
絵巻、浮世絵に描かれている通り、井伊彦根藩邸の表門はE地点です。
井伊直弼の行列は、徒士20数名とお付きの従者40名ほど。対する襲撃側は18名。数で見ると井伊側有利ですが、安政七年三月三日、桃の節句(新暦1860年3月24日)は、季節外れの大雪。

絵巻でわかるように、井伊側は大名行列の規則でスネを出し、足袋も履かずに裸足。
雨合羽を着、刀には雪除けの柄袋をつけています。身動きが不自由な上、かじかんだ指で刀の柄袋を解くことも難しい状況です。



井伊藩邸に逃げ帰る者、今の桜田通り方面に逃げる者も描かれていますが、柄袋をつけたまま、刀の鞘で応戦した者もいたと云います。
桜田門の門番は門を閉ざし、江戸城への敵の侵入を防ぐのが役目。門外で起きている事件は傍観するだけです。
今でも時々「桜田門」が桜田門を守っています 。
拳銃を構える男
約三分間の死闘の末、襲撃側が井伊直弼の首級を挙げます。
定説では、拳銃を持っていたのは、リーダーの関鉄之介、直訴状を持ち、籠訴を行った森五六郎の二人。森五六郎が撃った銃弾が井伊直弼に命中したことになっています。
しかし、蓮田市五郎の残した絵巻では、森山繁之介が拳銃を構えています。えっえーっ(*’д’*)!

一説には水戸藩の武器製造工場「神勢館」で、ペリーがもたらしたリバルバー拳銃「コルト51アーミー」の完コピを造っていたと。
襲撃グループは元水戸藩士。拳銃を手に入れることが出来、5丁用意していたと云います。
命中した銃弾は誰が撃ったのでしょうか?
拳銃を提供したのは誰なのでしょうか?
謎です。
古地図で見る逃走経路
襲撃後、それぞれに逃走。見届け役として戦闘に参加せず立ち去る者、老中脇坂中務大輔邸(古地図F)、細川越中守邸(G)に自訴(自首)する者など。
その中で、井伊直弼の首級を挙げた元薩摩藩士、有村次左衛門の逃走経路を見てみます。
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有村次左衛門は重症を負いながらも、井伊直弼の首級を持ち、桜田門外(A)から今の日比谷公園方向に進み、日比谷御門(B)を抜け、濠沿い(今の日比谷通り)に、馬場先門(C)、和田倉門(D)が閉門しているのを横目で見、辰ノ口の遠藤但馬守邸の辻番所前(E)で力尽きます。


井伊直弼の首級は遠藤但馬守邸で預かります。数時間後、井伊彦根藩邸から使者が首級を引き取りに来ます。
その時、使者は、「井伊家家臣、加田九郎太の首を受け取りに」と偽っています!щ(゚Д゚щ)。
もうすでに事件の揉み消しが始まっていました。

将軍のお膝元で、大老が襲われ、首をとられるという事件。
今で言えば、国会議事堂前でテロ集団に襲われ、内閣総理大臣が暗殺されるようなものです。
ゴルゴかゴエモンかよっ!ヽ(`Д´)ノ というぐらいのありえない事件でした。

お家取り潰しになってしまう井伊彦根藩にも、権力の失墜を露呈してまう幕府にとっても、この事件は無かった事にしたかったのです。
ゆえに今になっても、井伊直弼の遺骨はどこにあるのか?事件の黒幕は?などという謎が付きまとっています。
「天下の大悪人」と水戸藩主、徳川斉昭からも非難された18人の内、明治まで生き残ったのは二人だけ。
その内の一人、海後磋磯之介(かいごさきのすけ)は「菊池剛蔵」と改名、本名を隠し、警視庁・水戸県警察本部に勤務。明治36年(1903年)没します。
海後磋磯之介が残した事件覚書には、文差しに直訴状をつけ、籠訴に走る森五六郎が描かれています。

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