海岸に下りる坂だった?牛坂
文京区牛天神(北野神社)の裏手、北側に面する急坂。網干坂の上の坂。坂下に牛石があったから牛坂(別名、潮見坂・蛎殻坂・鮫干坂)。と、書きましたが、お気づきのように海に関係する坂名がつづいています。
東京の真ん中に位置する文京区の牛天神前は中世の頃は入江だったのです。牛天神を見るとき、いつも急峻な崖の上にあるなあと思っていたのですが、波が削った海食崖だったのです。
かつては崖の裏手の坂(牛坂)を下り、海岸に出ることができたのでしょう。なので、もとは海運安全の神様を祭っていた場所、港のあった場所だったと想像できる地形です。
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崖の上の牛天神
江戸名所図会を見てみましょう。表門に大きな石段がありますが、今はありません。門前にマンション、住居が建ち、隙間から崖が顔を出してます。
マンション建設の際に削ったのでしょう、もの凄い崖になってます。網干坂側の住居の間から見ても紛れもない崖です。


江戸名所図会の左端に牛石が描かれています。この石が網干坂の坂上、牛坂の坂下にあったのですが?今はないようです。ご心配なく、牛天神の境内、本殿の前にあります。

江戸名所図会でいうとオレンジ矢印の位置から青い矢印の位置に移動しています。牛石は頼朝にあやかって「撫で石」とも呼ばれ、牛の口のほうから撫でると願いが叶うといいます。
私が先日、訪れたとき、どこが口だかわからないと、おばちゃんが口を探していたので適当な凹みをココが口と教えてあげました。

牛石のいわれについて「江戸志」に、
寿永3(1184)年、源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ、老松につないでなぎを待つ。その間、夢に菅中(菅原道真)が、牛に乗り衣冠を正して現われ、ふしぎなお告げをした。夢さめると牛に似た石があった。牛石これなり。

牛坂は頼朝が居眠りしながら、波が静まるのを待つのに最適な場所でしょう。その後、頼家が生まれ、平氏を西に追うことができたので、お礼に、ここに社殿を造営した。それが牛天神とのことです。

今の牛坂を見ると確かにここに石があったら交通の邪魔!ってえことでいつの時代か、大八車で境内まで移動したのでしょう。
また、江戸名所図会の中に「揚弓」とわざわざ書いてあり、縁日のライフル射撃みたいな弓射撃場があって面白いです。「裏門」とあるのが現在の表門になっています。

富嶽三十六景 礫川雪ノ旦の謎

葛飾北斎が書いた「礫川雪ノ旦」(こいしかわゆきのあした)です。この絵は通説では小石川伝通院か、牛天神から見た富士山の風景となっています。
雪が止んで、高台の茶店から神田上水or後楽園の池の向こうに富士山が見える光景です。伝通院の茶店だった場合、伝通院から確かに富士山は見えたでしょうが、尾根道にあたる冨坂(春日通り)越しに富士山を見ることになり、冨坂が描かれていない。
また、尾根が邪魔して神田上水or後楽園の池は見えないと思われます。牛天神からだとすると、神田上水も後楽園の池はバッチリ見えるし、江戸名所図会をみると、茶店らしき二階建てor高床式の建物が描かれているのを発見!この絵、わたくし的には牛天神からだと思うのですが、みなさん、どう思我ますか?
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江戸切絵図にも牛サカ、牛石の表示があり、お江戸の小さな観光スポットだったのでしょう。
狛犬と狛牛
牛天神には狛犬、狛牛がいらっしゃいます。牛天神だから狛牛。う〜ん、こりゃよくわかるが、狛犬も面白い!よく見ると阿形のほうだけ、子犬にお乳をあげてるんです(*´∀`*)かわいい〜。
文化六歳とあり1809年作、しかも「坂通り」とあり、網干坂の商店街の寄進でしょうか。坂道ファンにとってはグッとくるお品であります。
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