三宅坂はダイナミック且つ美しい。
江戸城の半蔵門から、多くの藻を帯びた内堀の水と緑を従え、白い漆喰の桜田門へと下っていきます。

こんなに長く、また、景色に溶け込む坂は、他に類を見ません。
半蔵門
坂最上部の半蔵門を見て振り返ると、そこには真っ直ぐ国道20号、新宿通りが延びています。
半蔵門は江戸城の搦手口(逃走経路)。いざという時は、甲州街道を下り甲府城へとスムーズに逃げやすくなっています。
将軍の避難訓練があったとは聞きませんが。


皇居周回ランの反時計回りという粋なルールから、半蔵門〜桜田門は緩やかな下りとなり、広がる景観にホッと一息つける区間です。
この広大な景観を有する三宅坂は、古くから外国人にも紹介されています。
開国直後の明治三年(1870年)、横浜外国人居留地で発行された新聞「ファー・イースト」でも「三宅坂」は美しい坂として紹介されています。

三宅坂と洋風建築
明治も中頃になると、皇居周辺には、大名屋敷に変わって司法省など、政府機関の建物が並びだし、ハイカラ好きの日本人にも「東京で一番美しい坂、近代的で美しい坂」と認知されます。


坂下の司法省(明治28年、1895 年竣工)は復元修理され、今では「法務省赤れんが煉」と呼ばれる国の重要文化財。
内部の一部、法務資料展示室を見学できます。
写真撮影不可ですが、震災にも壊れなかった内部の大理石は立派で美しいものです。

陸軍参謀本部
井伊彦根藩邸跡には軍のバラックに変わって明治14年(1881年)、陸軍参謀本部が竣工されます。



陸軍参謀本部は昭和20年の空襲で崩壊、軍政とともに姿を消します。本部前の陸軍参謀本部長、有栖川宮熾仁親王騎馬像は戦災を免れ、昭和37年(1962 年)、有栖川宮記念公園に移されます。
銅像といえば……。
三宅坂交差点近くの三宅坂小公園
最高裁判所前の三宅坂小公園。ここには三体の裸婦像が。
広告記念像 広告がわが国に平和産業と産業文化の発展に貢献した事績は極めて大きい。わが社は昭和25年(1950)7月1日その創立50年を自祝し過去半世紀を回顧してこれを記念するに当り、平和を象徴する広告記念像を建設して東京都民に贈り、広告先覚者の芳名を記録してその功労を永久に偲ぶこととした。 西暦1950年 株式会社 日本電報通信社
井戸端会議、おしゃべりをしていて、広告を表しているとは思いますが、なぜ、ヌードが平和を象徴しているのか?。自由過ぎます。
戦前ここには、第18代内閣総理大臣、寺内 正毅(てらうち まさたけ)の騎馬像が建っていました。
戦後、三体の裸婦像になるとはビックリの変わり身の早さです。
かと思えば、近くの千鳥ヶ淵公園には、ソッポを向いた三体の裸の男が、なすがままに鳩の休憩場になっています。
まことに「芸術」とはわからぬものです。
三宅坂小公園の三体の裸婦像の裏には隠れるように、案内板が。
渡辺崋山誕生地
ここに、三河田原藩の上屋敷が、かつてありました。
渡辺崋山は、名を定静、通称を登といいます。三河田原藩三宅家の藩士の息子として、寛政五年(1793)に上屋敷内の長屋で生まれました。文人画家として、また蘭学者としても著名な人物です。
天保三年(1832)に年寄役末席となり海防掛を兼務して以来、小関三英や麹町に塾を開いていた高野長英らと蘭学研究を始め、尚歯会を結成しました。
天保十年(1839)、いわゆる「蛮社の獄」により捕縛投獄され、同年十二月に在所蟄居を命ぜられ田原に向かうまで、四十年余りをこの地で過ごしました。
昭和三十年三月
千代田区教育委員会
(平成二十年一月補修)
歴史好きとしては、こちらをメインにした銅像が欲しかったです。
しかしながら、華山が描いた国宝「鷹見泉石像」の満ちた生気と比べられたら、どんな銅像でも太刀打ちできそうにありません。
三河田原藩三宅家。そう、やっと出てきた「三宅坂」の名の由来です。
三宅坂の二つの名水
三宅坂交差点近く、掘側にある案内板。
よく見ると土手下、柳の木の下に井戸跡のようなものと、階段があります。

明治初期の古写真には小屋、通路が写っていて、以前は掘の水面近くまで降りることができたようです。

歌川広重の浮世絵にも描かれています。
よく見ると柳の井の向こうに井戸のつるべが何本も描かれています。これは藩邸前で井伊彦根藩が疲れた旅人に提供していた「桜の井」。
大老井伊直弼も藩邸の門を出て、この「桜の井」「柳の井」の前を横切り、三宅坂を下る登城ルート、桜田門へと向かいます。
千代田区の名坂トップへ
東京で一番美しい坂、三宅坂グーグルマップはこちら
または下記マップ右上の拡大表示ボタンをクリックしてグーグルマップでご覧ください。