歌川広重画「小石川にしとみ坂の図」。
犬の喧嘩で転がり落ちるみかん。騒がしく、また、山登りのような図です。ずいぶんと大袈裟な表現のように思えますが。。。

しかしながら、この富坂、江戸切絵図の町名(下富坂丁、中富坂町、上富坂丁)で判断すると、また、下富坂丁の下に橋が架かっていることから判断すると、かなりの急坂だったようです。

明治の地図を見ると

明治初期の地図では、標高6.63mから15.11mまで登ってます。
周りに建物もほとんど無く、まるで山のような等高線。
今の富坂を見ると信じられない光景です。
道のないところから登れば、山登りのような斜面ですщ(゚Д゚щ)。広重の表現が決して大袈裟でないことがわかります。
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明治後期に東京砲兵工廠が拡張され、その時、西富坂は、緩やかな直線路に整備されます。

地図を見比べると、、、
江戸時代の、明治初期の西富坂は今の礫川公園から東京都戦没者霊苑にかけての傾斜ということになります。


この礫川公園、江戸時代、明治初期、東富坂同様に斜めに登る坂道だったのです。
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