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お江戸の名プロデューサーの存在がプンプン匂う大日坂
坂の途中に妙足院大日堂があり、その名をとって大日坂。江戸の初めの頃は、寂しい土地だったここに、賭博場があったといいます。(ギャンブルに寂しい土地というのは、幕府の目を逃れるために重要)その賭博場で酒、肴の世話をしていた尼さんがいて、一人の博徒(ギャンブラー)が、いつも世話になっている尼さんにお礼をすることを考えました。

尼さんが信仰しているのが大日如来なので、この大日如来にご利益があるといいふらせば、流行って利益が出るのではないか?と。各地から集まってくるギャンブラーに宣伝したところ、多いに繁盛して、大日堂を建てるほどになったといいます。

この話、当時の江戸町奉行、根岸鎮衛の随筆に残された話で、あながち作り話だとはいえません。
確かにパッとしない場所の山道みたいな感じの坂なのですが、桜木町(旧町名、江戸川橋交差点の西)からここまで200メートルの間に縁日が立つほど賑やかだったといいます。
そう思うとマーケティング、広告戦略を熟知した名プロデューサーがいたのかもしれません。
今では地味なこの大日坂、江戸名所図会に紹介されているし、江戸の坂道番付でも上位にランクインされていてビックリします。
小日向大日坂は前頭四枚目です。

まったくの私感ですが……。
江戸の黒歴史的に私の妄想をいうと尼さんは比丘尼かもしれません。
比丘尼とは尼僧の格好をした私娼婦のことでギャンブル場で給仕もしていたのでしょうか?
新宿区には比丘尼坂という坂もあります。
尼僧はありがたいお札を売りに各家に入っていくので、私娼婦には好都合な格好だったと。
実際、桜木町には岡場所(幕府非公認の娼婦宿街)があったといいます。江戸時代のある人の日記で「還国寺から見る久世山の下の岡場所は、宿がビッシリと崖下にあり、嵐でも来たら崖崩れが心配だ」と言っています。そうとう賑やかだったのでしょう。
大日堂にお参りに行ってくると言って、飲む打つ買うの遊びをしてた若旦那がいたのでしょうか?
お江戸はおもしろスポット満載です。
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この地図でおもしろいのは木戸で閉ざされた御賄組(鼠坂の項を参照)の敷地に近いのと、やたらと町人地(八幡坂町、護国寺門前町である音羽町と桜木町、神田上水の水道町)が多いことです。
鷺坂が出来る前の道割になっているので新しい道を走ると鷺坂にぶつかります。
東京都文京区教育委員会の説明
大日坂 だいにちざか 「・・・坂のなかばに大日の堂あればかくよべり」(改撰江戸志) この「大日堂」とは 寛文年中(1661~73)に創建された 天台宗覚王山妙足院の大日堂のことである。 坂名はこのことに由来するが,別名「八幡坂」については 現在小日向神社に合祀されている 田中八幡神社 があったことによる。この一円は 寺町の感のする所である。 この町に遊びくらして三年居き 寺の墓やぶ深くなりたち 折口信夫(筆名・釈超空 1887-1953) 東京都文京区教育委員会
やたらと多い坂道案内板。現在のプロデューサーの戦略か?
新編江戸志(九)より
略縁起云本尊大日如来は往昔慈覚大師入唐のみぎりに将来給ふ霊像なり、然るに元亀元年織田信長の亂によりて山門堂社佛閣残らず兵火の為に灰燼となる、此尊像江州蒲生郡兵主大明神の森に移り給ふ、夜な夜な光を放し給ふにより、藤原氏某光りをたづねて此霊像をもり奉り、日暮おこたりなく供養し、一子を授け給へとふかく祈りしに、感應むなしからず、一人の女子を産む、後に紀州にみや仕し其後かざりをおろし渋谷禅尼といふ、是當寺の開山なり、霊夢を得て此地に本尊を安置し奉り、一宇を建立すと云々
慈恵大師、織田信長、藤原氏とビッグネーム!が登場する縁起。最後は子宝まで授かるありがたーいお話ですが、お江戸の名プロデューサーの作でしょうか?
ほんとの話なら国宝級のお宝です(;  ̄ェ ̄)。
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