後楽園駅前、礫川公園のトンネル跡。これは小石川税務署裏まで続いているのか?前編で考察した水戸藩江戸上屋敷とは関係あるのか?

どうも礫川公園の隧道入口のレンガは明治に比べ時代が新しいような気がします。
しかも税務署の方角を向いていません。

古地図を見てもそうです。また、明治の当初、射撃場は地下では無かったようです。

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地面を掘り下げ、周りを土塁で囲ったような表記です。
夏目漱石先生の「こころ」にこんな記述があります。
散歩がてらに本郷台を西へ下りて小石川の坂を真直に伝通院の方へ上がりました。電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、何心なく向うの崖を眺めました。
西富坂
「小石川の坂」とは電車の通路と言っているので市電の通る「西富坂」のことです。西富坂から伝通院に向かって登っていくと、左手には砲兵工廠があり、土塀があったようです。レンガ塀ではなく土塀。弾丸がめり込みやすく流れ弾の反射を防げるということでしょうか。

西富坂は、かつての射撃場に沿うように、かつての水戸上屋敷の敷地に沿うように、ここでカーブしています。
消滅してしまった江戸時代の東富坂と違い、西富坂は主要幹線道路となっています。
もう一つの射的場
明治期には文京区弥生にも射的場があり、そこは等高線を見る限り、かなり掘ったようで驚かされます。

砲兵工廠の射撃場は、弥生のこれとは違い、掘った土を積み上げ、ガードフェンスにしていたようです。
余談ですが、弥生、かつての射的場近くに「弥生土器ゆかりの地」の碑が立っています。

実は弥生式土器の出土地は正確に把握できておらず、東京大学校内だとか、向ヶ岡貝塚だとか、異人坂だとか、いま現在、碑のある場所だとか、意見が様々。射的場も埋められ、この周辺は急速に開発が進み、往時の面影が全くないのが原因です。
ひょっとすると、射撃場造成の際、掘り下げている時に出てきたのかもしれないと坂道探偵は睨んでいます( ̄ー+ ̄)ニヤリ…。

赤い文字
だいぶ、ずれてしまいましたが、話を元に戻します。
礫川公園のトンネル入口から、トンネルが伸びていると思われる方向へと歩いて行くと東京都戦没者霊苑があります。

ここも高射砲陣地だった云われており、昭和20年(1945 年)の航空写真を見ると、確かに、それらしきものが写っています。
赤矢印に円弧を描く高射砲陣地らしきもの。射撃場トンネル入口(青矢印)らしきものも写っています。
関東大震災後、砲兵工廠は移転しますが、太平洋戦争まで軍の施設の一部は継続して残っていました。明治期の射撃場は地下トンネル構造となり残ります。
痕跡を探しながら、どんどん行くと、
えっ、えーーーΣ(゚Д゚;)。
お隣の中央大学との間の壁に赤いペンキで「弾道外面」の文字が!
私にとっては新発見です。早速、帰って図書館で資料を漁りまくります。

こんな地図がありました。日本ライフル射撃協会が行った実測図です。
赤文字「弾道外面」は、この実測の時のものでしょう。
事情を知らなければ、意味不明の赤ペンキ文字で「はぁ?何これ(ノ゚⊿゚)ノ」ですが、やはり地下ライフル射撃場は税務署方向(南西方向)ではなく、西富坂の方へ(北西方向)延びていました。ほかに地下トンネルは無いようです。
かつて、地下ライフル射撃場はオリンピック競技の練習にも使われていて、後楽園駅から専用の出口もあったそうです。
ならば、税務署裏のトンネルは何なのか?
地下ライフル射撃場の線は途切れました。
税務署裏のトンネルは何なのか、図書館で資料を探します。
春日町(小石川後楽園)遺跡調査報告書の一つに、「警視庁施設建設に伴う発掘調査報告書」というものがあります。
現在、税務署の裏の崖上には警視庁第五方面本部があり、そのビルを建設した時の発掘調査の模様を記しています。
ここでは旧石器時代の矢じり、縄文弥生の土器片、貝類、中世・江戸の器、二分判金貨などが出るわ出るわ。さすがは文京区の複合遺跡です。
そして明治期のレンガ敷き。防衛省防衛図書館所蔵の地図付きで紹介しています。


地図上の黒枠部が発掘エリアなので、このレンガ敷きは火薬庫の一部ではないかと言っています。
この地図でも、やはり射撃場(青矢印)は掘り下げていて全長300mはあります。西富坂側には塀のようなものがあり、漱石先生の描写通りです。
そして火薬庫の南に坂道が4本(A B C D)あり、崖下へと続いています。東側の2本(C D)は直線直角で、いかにも陸軍が明治以降に作ったもののようですが、西側の2本(A B)はクネって交わるラフな形状です。これは江戸時代からのもの、水戸上屋敷時代からのものに違いないと直感が走ります。
江戸時代の水戸上屋敷の地図を探すと、、、
水戸藩上屋敷内を流れる神田上水図に、坂道の表記(赤矢印)があります。


そして、水戸藩士が残した地図を、昭和45年に書き写したという水戸藩邸内地図には「天神坂」と名前入りの表記が(赤矢印)。

「がけ下と言ふ」の表記もあります。崖上は「台御殿跡畠なり」とあり、今の小石川税務署裏、今回、露出したトンネル辺りの地形と一致します。因みに青矢印は、前編で述べた東湖先生圧死の地です。よく見ると「義公此の能楽堂和堂にて藤井紋太夫正、御手打遊せたる所」と怖い表記もあり、興味深いщ(゚Д゚щ)。
「天神坂」、今では存在しない坂道です。
ましてや藩邸内。一般町人が利用する切絵図に載っているはずもなく、私にとっても初見です。
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小石川後楽園図という絵画にも崖上から降る坂道(青矢印)が描かれています。
天神坂は東京砲兵工廠全図のA Bの坂道に間違いないでしょう。
天神坂は消えた
明治初期の地図にはこの坂道「天神坂」(A B)は、東京砲兵工廠内にありますが、明治後期の地図では忽然と姿を消しています。
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なぜでしょうか?
そうです。この坂道を利用し掘り下げ(または坂道中腹から掘り)、ドーム型レンガ造の倉庫を作り、安全を期すために上に土を被せた。崖下は火工場の表記。
ということは、弾薬などの危険物保管庫ではないでしょうか。
坂道探偵はこのように推理します( ̄ー+ ̄)ニヤリ…。
崖下の砲兵工廠
古写真を見ていて気付きました。なんと、この辺りと思われる古写真があったのです。

明治37年(1904 年)東京砲兵工廠内でも日露戦争戦勝を祝うとあります。左側に崖があるので、崖下の火工場と思われます。
今後の発掘調査はあるのでしょうか?。
TBSさん、「徳川埋蔵金」より「帝国陸軍軍資金」の方が面白いかもぉ(≧∇≦)。
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