ワトソ子くんがネット上で騒いでいます。
牛天神下、小石川税務署の裏手の工事現場。木々が取り除かれると、崖からトンネルらしき遺物が顔を出したと。
ワトソケ子くん(誤植ではない新キャラ、密かに坂道探偵社入りを画策する歴史好きの子育てに忙しい若奥さん)も興味を抱き、区役所に電話。区の土地ではないので税務署に電話してくださいと言われ、税務署嫌いщ(゚Д゚щ)のためなのか、閉口しているそうな。
「これ、射撃場のトンネルの出口ではないでしょうか?」
「えっ(*’д’*)、あのトンネル入口は後楽園駅近くにあるねぇ。あれがここまで続いているの?」

ワトソ子くん曰く、ここは東京砲兵工廠(軍事工場)の跡地なのでライフル銃の弾道実験隧道の出口ではないか?と。
崖の上を丸ノ内線が通り、様変わりしてしまいましたが、確かに、ここから約270m東、後楽園駅近くに、ライフル射撃場トンネル入口跡はあります。
けれどもぉ、、、果たしてそうなのか?
坂道探偵の出番のようです。
まずは東京砲兵工廠の調査です。
水戸黄門のお屋敷跡の軍事工場
東京砲兵工廠とは、水戸藩江戸上屋敷敷地跡に、明治以降、作られた軍事工場で主に拳銃、弾薬を製造していました。
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水戸藩江戸上屋敷跡、東京砲兵工廠は、今でいうと、東京ドーム、ドームホテル、遊園地(東京ドームシティアトラクションズ)、LaQua、特別史跡・特別名勝小石川後楽園、後楽園駅、文京区役所も含まれる広大なものです。よく使われる表現「東京ドーム◯個分うんぬん」。ここでは既に一個入っていますが、約7個分の広さです。


東京砲兵工廠の古写真
武家地が多かったこの辺り、明治になると寂れてしまい、東京市小石川区は東京市15区の中で一番、茶畑などの農地が多かったと云います。
そのため名所は小石川後楽園と東京砲兵工廠ぐらいしか無かったらしく、また、富国強兵を推し進めた明治のシンボル的存在だったので古写真は多く残っています。



そんな大軍事工場も自然災害には勝てずに、関東大震災で甚大な被害を受け、再建するよりも手っ取り早いということで九州小倉へ移転が決まります。

昭和11年(1936 年)株式会社後楽園スタヂアム(現・株式会社東京ドーム)が土地の一部を買い取り、今のようなレジャー産業の地に生まれ変わります。
戦争が終われば、明るい光景が戻ってきます。
珍しい古写真が。株式会社後楽園スタヂアムは破天荒なことをします。後楽園駅前にスキー場とは!
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新潟から雪を運び、ゲレンデを作ってしまいました。後楽園駅の所在から見ると、この広場は今の文京シビックセンター(文京区役所)辺りでしょうか。
戦争遺物
戦争が残した遺物は多いようです。文京区のコクリコ坂は大塚兵器支廠を貫くように伸びているし、戸山公園には陸軍戸山学校がかつてあり、坂道にトンネル跡が、元町公園脇の坂道、そして異人坂にも防空壕跡があります。


今回は東京砲兵工廠の遺物を見るため、水道橋駅から水道橋を渡り、外堀通りを越えます。
すると、いきなりの歴史案内板が、、、
藤田東湖護母致命の処 幕末の勤皇家 藤田東湖(1806-55年)は、水戸の藩士で、藩主徳川斉昭の信任も、きわめてあつかった。 弘化元年(1844年)藩政改革に尽力したが、逆にそれが幕府の疑惑をまねき、斉昭は謹慎に、東湖は蟄居の身となった。後に許され、斉昭は藩政に復帰し、東湖は江戸詰を命ぜられ、小石川の水戸上屋敷に住み、側用人となった。 安政2年(1855年)大地震がおこり、藩邸が倒壊した。東湖は母を助けて外に出たが、母がその時、火鉢の火が危ないと、再び屋内に引きかえした。東湖は母を救い出そうと家にもどった時、鴨居が落ちてきた。東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭に出した。しかし、東湖は力つき、その下敷きとなって圧死した。 その場所は白山通りで、そこに記念碑があったが、拡幅工事のため道の中になってしまった。そこでその碑は、後楽園庭園内に移された。 文京区教育委員会
なるほど。三百坂の時に読んだ手塚治虫先生の「陽だまりの樹」にもこのシーンは登場します。

やはりここは戦争遺物だけではない。江戸の歴史も避けて通れないところのようです。
ドームホテルの東側に細長いウォータープールがあり、古地図を見ると、これは千川暗渠の上にあるようです。千川は東京砲兵工廠の中を通っていました。
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ドームホテルの裏手の階段を降りて行くと、大きなレンガの塊があります。
掘り出された東京砲兵工廠の工場基礎部。
後楽園球場の外野、センターの位置と説明板にあります。
「ここがセンターの位置かぁ。一番・センター・柴田。二番・セカンド・土井。、、、、、九番・ピッチャー・堀内。」
頭の中でジャイアンツV9戦士を諳んじている私がいて、ニヤリと自嘲し、「ナイツかよっ」と自分で突っ込みます。
歳がバレます。
戦時中、後楽園球場には高射砲陣地があり、B29を打ち落としたと云う話、信じられますか?
よく超高高度で侵入してくるB29まで弾が届かなかったと云われていますが、私の父はB29が落ちるのを見たそうです。
「後楽園球場の高射砲はよく当たるんだよ」
「え〜、球場に高射砲?」
「少しでも高いところからの方がいいから二階スタンドから撃ってたんだよ、花火のようでキレイだったよ」

呑みながら話しているので「よく当たる」の頻度はわかりませんが、確かに撃墜していたのです。
考えてみるとB29が落ちてくるというのも恐怖です。修羅場をくぐり抜けてきた人間は凄い。サラッと言っていました。
特別史跡・特別名勝「小石川後楽園」


次に小石川後楽園に向かいます。
東京砲兵工廠の真ん中になぜ上屋敷の庭園が残っているのか?
庭園好きで知られる山県有朋(椿山荘の項参照)の計らいと云われおり、山県元帥ならあり得ると納得。都市景観には緑が必要だから庭園を残そうと言うフランスの軍事顧問に賛同したそうです。
小石川後楽園にも戦争遺物があります。
まずはこの碑。古地図を見るとわかるように、これは東京砲兵工廠の敷地をかたどっています。

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また、江戸時代の居酒屋を模したという「丸八屋」。この建物の前に円盤状のものが。
説明板はありませんが、造弾器の一部と云われています。しかしながら、なぜ、こんなところにあるのでしょうか?
どこからか持ってきたとしか思えないけれども、なんとなくマッチしていて、風流に見えるから不思議です。
椿山荘では驚いた山県元帥の審美眼の為せる技でしょうか?

関東大震災の瓦礫。陸軍時代のレンガ、瓦があちこちに埋まっています。
大震災後の補修と思われるレンガ混じりの石段、レンガのある礎石など、陸軍という観点から観ると名園の別の魅力が浮かび上がります。
園内北角には「藤田東湖護母致命の処」の碑。
これがかつて水道橋近くにあって、白山通り拡張のためにここに移転したというものです。
学者で親孝行者。銅像を建ててもいいくらいのお話です。
小石川後楽園を出ると新しい外壁に、また江戸時代の香りが。
石垣に刻印石があります。丸の内、鍛冶橋の外堀から移設された物です。◯に山は備中成羽藩3万石・山崎家治の普請です。


射撃場のトンネル跡
後楽園駅前まで来ました。
ここまで、東京ドーム周辺、小石川後楽園と見てきましたが、謎のトンネルの手がかりは無し。
しいて言えば、この射撃場トンネル入口のレンガは時代がやや新しいように思います。
これと小石川税務署裏、今回、露出したトンネルは結びつくのでしょうか?
後半でいよいよ謎が解決!