お江戸のど真ん中、千代田区に「小栗坂」という坂道があります。長いさいかち坂を登る途中、右に下る小さな坂です。

この坂を小栗坂といいます。『江戸惣鹿子名所大全』には「小栗坂、鷹匠町にあり、水道橋へ上る坂なり、ゆえしらず」とあり、『新撰東京名所図会』には「三崎町1丁目と猿楽町3丁目の間より水道橋の方へ出づる小坂を称す。もと此ところに小栗某の邸ありしに因る」とかかれています。明暦3年(1657)頃のものといわれる江戸大絵図には、坂下から路地を入ったところに小栗又兵衛という武家屋敷があります。この小栗家は「寛政重修諸家譜」から、七百三十石取りの知行取りの旗本で、小栗信友という人物から始まる家と考えられます。 昭和50年(1975)3月 千代田区
「小栗某」を古地図で探す
「何某」(なにがし)とか書かれると、興味が湧くものです。
『新撰東京名所図会』にある「小栗某」を古地図で探すと、
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江戸初期の地図には「小栗又兵」(青矢印)とあり、この屋敷が坂名の由来になっているようです。

しかしながら、幕末の切絵図には小栗坂の表記はあるものの、「小栗某」は見出すことは出来ません。
『江戸惣鹿子名所大全』では「ゆえしらず」(坂名の由来はわからない)と、すでに江戸時代中に書かれています。長い江戸時代(約260年間)の間には、よくあるパターンです。
壱岐坂の由来の根拠も不明になった例もあり、変遷を繰り返したお江戸ならではのこと。服部坂のように江戸時代を通じて同じ場所に屋敷を構えるケースも多々あります。
小栗坂の場合、小栗又兵は、正保4年(1647年)の江戸大地震や明暦三年(1657年)の明暦の大火後に近くに移転したことはわかっていますが、その後は子孫が途絶えたのか?遠くに移転したのか?いずれにせよ、坂名にのみ残るお武家です。
千代田区観光協会のHPによると、
三崎町一丁目と猿楽町二丁目の間を神田川の方へ上る坂です。昔近くに小栗某の屋敷があったことから、この名が付けられたといわれています。 幕末に活躍した小栗上野介の屋敷とは関係ありません。
と、素っ気なく「小栗上野介」の名が出てきます。
若い頃、毎週、楽しみにして見ていたテレビ番組、糸井重里と石坂浩二の「徳川埋蔵金伝説」に出てきた人物ですぞщ(゚Д゚щ)。
小栗上野介は、江戸幕府一のキレ者。優秀であるがゆえ、請われて勘定奉行、外国奉行、江戸町奉行、陸軍奉行、歩兵奉行、軍艦奉行を歴任。
遣米使節団の一人に抜擢され、欧米の産業革命を見、日本の近代化の道を開きました。
慶喜公が恭順せず、小栗上野介の策で、徹底抗戦していれば、官軍の面々の命は無かったであろうと大村益次郎に言わしめた人物です。
榎本武揚率いる幕府海軍を駿河湾に展開し、箱根で新政府軍を幕府陸軍といっしょに挟み撃ちにするという作戦でしたが、慶喜公が恭順。作戦は遂行されませんでした。
千代田区には小栗坂とは関係のない、幕末の大人物、小栗上野介の屋敷跡があるのです。
小栗上野介屋敷跡
小栗坂から東に約600m、神田駿河台のビル群の一角、東京YWCA会館あたりが小栗上野介の屋敷跡です。
小栗上野介ここに生まれる ここに生まれ育った小栗上野介(1827~1868)は、幕末の外交・財政政策をリードし、横須賀に大造船所を建設してわが国の造船業が近代化する道を開いた。
幕末の大人物なのですが、なんとも、殺風景すぎるプレートが一枚あるだけ(´・ω・`)。
靖国神社に銅像のある陸軍の大村益次郎に比べ、海軍の礎を築き、日本の近代化への道を開いたと云われる小栗上野介の評価は低いようです。

新政府軍ではなく幕府軍の最重要人物だったため、日本史から消されたと言っても過言ではありません。
家康公以来の名家「小栗又一」
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古い地図では「小栗又市(又一)」とあります。家康公の三河時代から仕えた直参旗本で、一番槍の小栗。数々の戦で、又もや一番槍!とのことでつけられた通称です。
武勇の誉れ高い家柄だったことが伺えます。
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安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任したので、以降の古地図では「小栗豊後守」となります。
ではなぜ今、小栗上野介と呼ぶのか?
小栗 忠順(おぐり ただまさ・1827~1868年)は、文久3年(1863年)、上野介に遷任されます。
そして、幕府瓦解後、領地であった上野国(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)に移り住みます。
勘定奉行であったため、徳川の軍資金を持ち帰ったのではないか?というような誤解が生じますが、これは彼の功績を汚すような噂に過ぎません囧rz。
小栗上野介の功績、横須賀製鉄所(造船所)
雨の中、横須賀を訪れます。

明治45年夏、東郷平八郎元帥は小栗上野介の遺族を自宅に招き「 日本海海戦で完全な勝利を得ることができたのは、小栗さんが横須賀造船所を作っておいてくれたおかげです」と礼を述べています。
小栗上野介がフランスから借金をして建設した横須賀製鉄所(造船所)。ここから日本の近代化が始まりました。




横須賀造船所(現・在日米軍横須賀海軍施設、ドライドックは当初のものが現役)の対岸はヴェルニー公園。
フランス人技術者ヴェルニーと仲良く建つ小栗上野介の胸像があります。
ここでもなぜか「小栗公園」ではなく「ヴェルニー公園」と、敗者に厳しい現実があります。
ヴェルニー記念館には日本の製鉄のマザーマシンと呼ばれる鍛造スチームハンマーがあります。広角24mmでやっと入る大きさです。幕末のマシンがなんと平成12年まで現役でした。
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横須賀造船所(製鉄所)では尺貫法でなく、日本で初めてメートル法を採用。
日本初の株式会社、ホテルの建設も小栗の手によるものです。
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司馬遼太郎先生は小説「明治という国家」で、小栗上野介のことを「明治の父」と呼び、大隈重信は「明治新政府の近代化構想は小栗のそれを模倣したに過ぎない」とまで言っています。
彼は滅びゆく幕府のことは承知していましたが、横須賀造船所は今後の日本に必要だと、国のことを考えていました。
吉田松陰もそうですが、偉人は自分のこと、自らの組織よりも国家のことを考えています。
湯島大小砲鋳立場、関口大砲製作所にも尽力していて、お江戸の坂道を調べていても、度々、登場します。
知れば知るほどの大人物です。
ん?、ヴェルニー公園のヴェルニーと小栗上野介の胸像の間にあるこの石は群馬県倉渕町から贈られたものです。
菩提寺「東善寺」
彼は江戸で最後まで抗戦した彰義隊の隊長に推されますが、大義名分が無いと固辞、領地に下ります。
上野国(群馬県)倉渕町権田の菩提寺「東善寺」を訪れた時も雨。まるで江戸っ子の涙のようです。


新政府軍によって、罪なくして処刑された場所には碑が立ちます。この辺りの石がヴェルニー公園にあるのです。

明治新政府によって日本の歴史から消されてしまった小栗上野介。小栗坂の「小栗又兵」のように、千代田区の歴史からも消えない事を願います。

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