.jpg?resize=474%2C632&ssl=1)
庚申坂、キリシタン坂、今井坂、丹下坂と別名を持っていますが、わたくし的には真のキリシタン坂と思っているこの坂、文京区教育委員会がいうように本名が「庚申坂」とした場合、坂下にあったという庚申塔はどこに行ってしまったのでしょうか?
庚申坂の近くで独自に庚申塔を探してみました。
(キリシタン坂の項を参照)

庚申(こうしん)坂 「小日向第六天町の北、小石川同心町の界を東より西へ下る坂あり………略………この坂を切支丹坂というは誤りなり。本名 "庚申坂" 昔、坂下に庚申の碑あり………」『東京名所図会』 庚申信仰は庚申(かのえのさる)の日(60日ごと)人が眠ると三尸(さんし)の虫が人の体から出て天にのぼり天帝にその人の罪を告げるというところから、人びとは一晩中夜明かしをした。この信仰は中国から伝わり、江戸時代に盛んになった。従ってキリシタン坂はこの坂の地下鉄ガードの向側の坂のことである。 「………両側の藪の間を上る坂あり………これが真の切支丹坂なり」『東京名所図会』 とぼとぼと老宣教師ののぼりくる 春の暮れがたの切支丹坂(金子薫園) 文京区教育委員会
庚申信仰について
庚申信仰は庚申(かのえのさる)の日(60日ごと)人が眠ると三尸(さんし)の虫が人の体から出て天にのぼり天帝にその人の罪を告げるというところから、人びとは一晩中夜明かしをした。 仏教では、庚申の本尊を青面金剛および帝釈天に、神道では猿田彦神としている。これは、庚申の「申」が猿田彦の猿と結び付けられたものと考えられる。また、猿が庚申の使いとされ、庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られることが多かった。山王信仰(三猿信仰)もここから生まれたとされている。
というように60日に1回徹夜しなければならない)。
ただ、みんな集まって徹夜するのも辛い、ならば宴会だ!飲め!食え!ということで60日に1回の庶民のレジャーとなっていきます。飲んで食って寝てしまった人も多いといい、ほぼ町内会の飲み会に近いですね。最初は宗教的にマジにやっていたのかもしれませんが宴会色の強いものだったと思われます。庚申講(庚申信仰の集まり)では60日に1回、3年間18回やった記念に庚申塔を建立する風習でした。明治の中頃まで各地で盛んでしたが、他に楽しみの多い今日では行われていません。その名残りの庚申塔は各地に残っています。
第一の候補、藤寺の門前の庚申塔
藤寺(藤坂の項を参照)の門前に、見ざる、言わざる、聞かざるタイプの庚申塔がありました。
「寛文十庚戌年(1670年)三月三日 奉○庚申為諸願成就也 」
(○は読めない)と碑文があり、江戸時代の記録『御府内備考』に
「庚申坂、、、享保の頃までは庚申の碑ありしゆへの名なり」
とあるので時代も一致します。
つまり、1670年作のこの碑は享保年間(1716年〜1735年)には、すでに存在していたことになり、もっともあやしい物件です。しかも門前にある!最初から門前にあったというと不自然、どこからか持ってきた感が強いので、これが一番あやしいです。

第二の候補、伊勢屋の十一面観音祠にある青面金剛
庚申坂に一番近いスポットで、唐突にここにある祠(ほこら)。丸の内線が通るので線路区域にあったものを移転した仏像の集合体という感じのものです。建物自体はボルトナットで施工されているのであまり古いものではないらしー。昭和期に建てられたものでしょう。「伊勢屋」の所在を調べようにも「江戸に多いもの伊勢屋、稲荷と犬のふん」というように、あまりに伊勢屋が多くて特定不可能。この仏像の集合体の中に庚申信仰のシンボルである青面金剛がいらっしゃいます。細やかな表現の高い完成度の仏像です。隠れた名作といえます。しかし、コンクリートで埋められいるので碑文が見えない。
碑文があって、条件を満たせば、庚申坂に一番近いし、あやしい。


全くの余談ですが、ここにある双体道祖神はレプリカです。初めてみたときは都会の真ん中で双体道祖神を発見かっ!と興奮しましたが、なんかこれ薄くねっ?と思い、裏にまわって上から覗くとペラペラのプラスチック製(*’д’*)。誰が、なぜ、こんななんちゃってをするのか、そっちのほうが不思議になって探りたくなる思いです。
.jpg?resize=474%2C470&ssl=1)
候補とは言えないが特殊なケースの庚申塔
庚申坂からはちょっと離れていますが牛天神に奇妙なものがあるので紹介します。見ざる、言わざる、聞かざるタイプの庚申塔を使い、「道祖神」と改刻したものです。
この「道祖神」の文字、どう見ても書体が近代的すぎ、モリサワの楷書体かっ!ってぐらい。何か消した跡もあるし、石好き、歴史好きは騙されませんよー。日付も消されてます。側面の寄進者も半分消されていて判読不可能。フォーマットも初期化も失敗してリライトも失敗してます。
三猿の彫刻から、もとは庚申塔だったとわかります。改刻されたのは明治以降でしょうが、庚申坂からここまで持ってきたものをリメイクするとは考えにくいですね。

結果として決定打は無し!。謎は謎のままで、わかってしまうとロマンが無くなる、妄想も膨らまないので、良しとしましょう。
文京区の名坂トップへ
庚申坂と庚申塔グーグルマップこちら
マップ右上の拡大表示ボタンをクリックしてグーグルマップでご覧ください。