もう一つの伝説、堀兼の井戸
新宿区、神楽坂の逢坂。
その坂下には悲しい伝説が残る井戸があります。
堀兼の井とは、「ほりかねる」からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。堀兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の堀兼の井には次のような伝説がある。 昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精根つきて死んでしまったという。 平成三年十一月 東京都新宿区教育委員会
「堀兼の井戸」は全国にあって、掘るのがたいへんだった井戸には、だいたい同じような伝説があります。これも暇な知識人が作ったお話でしょう。古写真も残っています。

この井戸、なんと、金属製手押しポンプとなって、今でも現役です。
昔の井戸の写真が貼ってありました。
やってみたら水がジャンジャン出ます。
枯れていません。
掘って一度、出てしまったら、もう止まらないということでしょうか?
気になる「ナベヅル」

江戸後期の地図でみると、逢坂近くに「ナベヅルト云」。こんなおもしろい表記があります。
これは囲炉裏に吊るす鍋の取っ手に似ている形状なので「ナベヅル」。逢坂が急坂なので迂回路としてあったと思われます。「ナベヅル」の方を使えば、重い荷も運べたようです。

今の「ナベヅル」(写真右、自転車が降りてくる道)はアンスティチュ・フランセ東京(旧日仏学院)の裏庭に通じているだけで分断されています。
今ではトラックでスイスイ登れるのですから。
こんな数々の面白いネーミング、物語を作ってくれた暇人はいったい誰でしょう?
坂上は神楽坂にしては平坦な土地です。そこに、江戸初期から理路整然とした町を開発して住んだのは御徒組(おかちぐみ)の人々。

上野の御徒町にも名を残す、戦では馬を使えない下級武士軍団です。戦乱の世が終わり太平の世を迎え、よほどヒマだったのでしょう。
神楽坂周辺は一つの坂だけでは語れない関連性が多々あります。
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