東京、千代田区猿楽町の路地を行くと、大きな階段坂に出くわし、しばし圧倒されます。
猿楽町という町名も面白いのですが、この急坂の名は「女坂」。
どう見ても女らしくは見えずに、力強ささえあります。
それはそうと「女坂」があるからには「男坂」もあるだろうと、近くを散策すると、それもあります。
どちらも幅広く、そして長く、立派な急坂です。
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高台に向かって、唐突にあるこれらの坂はなぜ必要だったのか?
疑問が浮かびます。
大正時代に出来た坂
もとは、猿楽師(のちの能楽師)が多く住んだ町なので猿楽町ですが、猿楽とこの坂は関係ないようです。坂道案内を見てみます。
女坂 この坂を女坂といいます。 駿河台一丁目七番地の端から 猿楽町に下る石段の坂。「男坂」に対して名づけられたものです。男坂が一直線の急坂であるのにくらべ,中途で中やすみするようになっているので「女坂」と呼ばれています。この坂のできたのは, 大正13年(1924)8月 政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。 昭和五十年三月 千代田区
男坂 この坂を男坂といいます。 駿河台二丁目十一番地の端から猿楽町へ下る石段の坂「女坂」に対して名付けられたものです。この坂のできたのも比較的新しく, 大正13年(1924)8月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。男坂は同一場所, あるいは並行してある坂の急な坂を, 女坂はゆるやかな坂というように区別されて名づけられています。 昭和五十年三月 千代田区
ともに大正13年の区画整理委員会の議決により作られたものと言っています。
地図で確認すると、

明治初期の地図を見ると地形がよくわかります。
神田山を削った結果にできた高台の駿河台とその下の猿楽町の間に崖があり、高低差がわかります。
神田山を削り、日比谷湾を埋め立て、平地を作っていったと思うと、そして今日の東京の礎を築いたと思うと、家康公の偉大さ、人々の尽力に感服せずにはいられません。
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昭和初期、二つの坂(青矢印)が出来上がっています。
坂道案内では、「大正13年の区画整理委員会の議決により」と言っていますが、大正12年の関東大震災後と言った方が良いと思います。
女坂、男坂は震災後の復興坂道なのです。
関東大震災、地震による被害
関東大震災の被害を伝える資料では、仲猿楽町の項に
第一震で滅茶滅茶に全開または半壊。二十番地の明治会館:第一震で塔倒壊、第二震で二階東南側の隅三尺、口を開く。被害著し。
と特記され、
仲猿楽町の全世帯数555の内、全壊156、全壊率49.05%(おそらく面積比) 。
猿楽町一丁目は全壊率29.05% 、猿楽町二丁目、全壊率21.87% 。
日比谷湾の入江は現在のJR御茶ノ水駅近くまで入り込んでいたらしく、猿楽町エリア全体、地盤が良くなかったようです。
それに比べて、女坂、男坂の坂上にあたる駿河台は、
ニコライ堂:第一震で塔屋墜落、巨鐘が落ち大穴を作る
などと半壊の特記はあるものの、広いエリア(駿河台南甲賀町、北甲賀町、西紅梅町、鈴木町、東紅梅町、袋町)で全壊率は0% 。

この数字を見れば、いざというときは、地盤の良い駿河台の高台に避難する経路が必要と思うのは当然でしょう。
しかも迅速に一気に登ることができ、渋滞、混乱の起きないように幅の広い坂が必要だと、誰もが思ったはずです。
お化粧している女坂
急ではありますが、女坂は途中に踊り場があり、ここで小休止できるので、「女坂」と命名されたようです。
そして、坂のガードレールは化粧を施すかのように新調されています。


一方の男坂はというと。
戦争の傷跡さえある男坂

男坂のガードレールは出来た当初のもので歴史を感じさせてくれます。

そして痛々しい補修の跡が目立ちます。
一度、取って、再度入れ直した鉄パイプ。
そうです。これは戦中の金属供出で鉄パイプを抜き、戦後、また鉄パイプを入れ直したものです。このような例は御茶ノ水坂、茗荷谷にもあります。


自動車が通れないような階段、アクセスビリティの低い急な階段、こんなに幅は必要なのかと思ってしまうのですが、女坂、男坂は災害の際、人々を救う、避難経路としての命の坂だったのです。
惨状を伝える古写真




古写真の惨状を見て思います。
大きな揺れの後の火災で、東京市神田区は焼け野原になってしまいました。
地震に耐えた駿河台でさえも。
地震よりも被害が大きかったものは、その後の火災です。
おばあちゃんの関東大震災
私の亡くなった祖母は女学生だった頃、神田の下宿先で関東大震災に遭遇。
ちょうど、その日は体調が悪く、学校を休んでいたのですが、大きな揺れを感じて家を飛び出します。
その後を追うように、下宿のおばさんが台所の火を消し、天ぷら鍋を持って飛び出してきたと。その直後に家が崩壊。
「おかげで火事にはならずに生き延びたのよ。あの方は立派だったわ。命の恩人よ」
そのように言っていたおばあちゃんのことを思い出すのでした。
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