幽霊坂

千代田区の幽霊坂と消えた坂の秘密

不気味な雰囲気の幽霊坂という坂は、お江戸に多く存在しました。昔は暗く寂しいところだったとは思うのだけれども、興ざめなことを言ってしまうと、実際、幽霊が出たという逸話はなく、また、幽霊坂と呼ぶのを忌み嫌い、別名を持つものが多いようです。

そんな坂道がオフィスビルの立ち並ぶ東京、千代田区にもあります。

幽霊坂
幽霊坂坂下から。
幽霊坂坂上から
幽霊坂坂上から
幽霊坂説明この坂を幽霊坂といいます。もとは紅梅坂と続いていましたが、大正13年(1924年)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた坂になりました。『東京名所図会』には、"紅梅坂は""往時樹木陰鬱にして、昼尚凄寂たりしを以って俗に幽霊坂と唱えたりを、今は改めて紅梅坂と称す。"とかかれています。また古くは光感寺坂とも埃坂などとも呼ばれていたこともあるようですが、一般には幽霊坂の名でとおっています。
千代田区
昭和50年3月

なるほど、幽霊坂は、別名を光感寺坂埃坂(チリ、ほこり、ゴミ坂のこと)と言っています。

江戸幕府による編纂の地誌『御府内備考』には

埃坂 火消屋敷の上へ上る坂なり。本の名、光感寺坂と云よし。又、甲賀坂ともいふ。

幽霊坂とは云わず、いきなりの「埃坂」です。
いつの時代か光感寺というお寺の寺領だったらしく、甲賀」は「光感」が訛ったものと思われます。

幽霊坂とは、危険なところや不潔なところへ人と近づけないようにするサインなのです。

幽霊坂、芥坂、埃坂、五味坂、闇坂、暗闇坂は、ゴミ捨て場があった可能性が大です。

江戸切絵図で見ると

嘉永六年(1853年)尾張屋刊江戸切絵図より
古地図:嘉永六年(1853年)尾張屋刊江戸切絵図より(クリックで拡大)。

御府内備考にある「埃坂 火消屋敷の上へ上る坂なり」。
切絵図を見ると、確かに「ユウレイザカ」を登り「フミサカ」を下っていくと定火消役屋敷があります(この切絵図では坂名の書き出しが坂上です)。

別名の光感寺坂、甲賀坂に関係すると思われる「コウカ丁」(甲賀町)の表記もあります。

埃坂(ゴミ坂)について

坂下部は目線より低くなるので、見たくないもの(ゴミ)は坂下に捨てるのが一般的でした。
そして、あまり見たくないので、森の中に捨てたりします。

東京名所図会で云っている「往時樹木陰鬱にして、昼尚凄寂たりし」というのは森林が濃かったということです。
この森はゴミの目隠しに最適だったのです。

幽霊坂の空地切絵図を見ると、小旗本屋敷が並ぶなか、空地が存在しています。ここがゴミ捨て場だったとすると合点がいきます。

江戸時代の町触れでは、ゴミは船で永代島まで持っていくように指示されていました。

明暦元年(1655年)正宝事禄にある町触れ

一、町中の者は川の中、その周辺にゴミを捨ててはいけない。今後は船を使って永代島へ捨てに行きなさい。ただし、夜間のゴミの持ち出しは禁止し、昼間だけにすること。

今の江東区の富岡八幡宮辺りが永代島で、江戸時代の埋め立て地です。幽霊坂下のここなら、お堀の水運が利用できます。

ゴミ坂だったという秘密を明らかにしてしまったこの幽霊坂には、もう一つ、秘密があるようです。

幽霊のように消えた坂

幽霊坂と紅梅坂、二つの坂は大きくクランクして繋がっていたのですが、本郷通りで分断されてしまいました。

本郷通りで分断された紅梅坂と幽霊坂

本郷通りの向こうにニコライ堂と紅梅坂が見えます。

紅梅坂
紅梅坂。坂名表示柱も紅で千代田区のセンスを感じます。
嘉永六年(1853年)尾張屋刊江戸切絵図より紅梅坂、フミサカ
嘉永六年(1853年)尾張屋刊江戸切絵図より紅梅坂(グリーンライン)と消滅してしまったフミサカ。

切絵図では、紅梅坂と幽霊坂の間にあった「フミサカ」が、今では消滅しているのです。

フミサカの辺り

ちょうど、今の幽霊坂の坂名柱のあたり(坂上部分)はフミサカと呼ばれていたことになります。

なぜ、このようなことが起きたのでしょうか?

古地図に答えが

明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図
古地図:明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図より。

明治の地図を見ると、坂の途中で小さくクランクしていています(赤矢印)。
小さくクランクして続く西側部分(グリーンライン)をフミサカと呼んだようです。

古地図:昭和3-11年(1928-36年)1万分の1地形図
古地図:昭和3-11年(1928-36年)1万分の1地形図より。聖橋と大通りの本郷通りができています。
聖橋
聖橋

やがて、聖橋ができ、太い本郷通りが通ると、幽霊坂の道幅が拡張され、小さなクランクは無くなり、一本の坂道となります。

「フミサカ」は幽霊坂に吸収されてしまったのです。

また、小さなクランクは、幽霊坂のゴミを目隠しする意味で重要だったと考えられます。
フミサカを登ってクランクすると「ユウレイザカ」が下っているという理想的な目隠しだったのです。

復活していたフミサカ

消滅した「フミサカ」の由来について想像すると、漢字だと「文坂」で、習字の先生が住んでいたのか?、湯島聖堂に近いからなのか?

ともあれ「文坂」でググると、なんと、同じ千代田区に、文坂が現存しているのです。

明大通り
明大通りの文坂。

駿河台下交差点へ下る坂です。この道は通称「明大通り」。

明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より
古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より。聖橋も文坂もまだ無い。
明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図
古地図:明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図より、新しくできた文坂御茶ノ水橋
明治40年のお茶ノ水橋
明治40年のお茶ノ水橋

明治後期に御茶ノ水橋が出来て、この新しい坂が、外堀通りと靖国通りを結んでいます。

ググっても坂名の由来は不明と出てきますが、本の街、神田神保町へと続く道、また多くの学校があるエリアなので、「文坂」と名付けたのでしょう。

神保町に下る文坂
神保町、駿河台下交差点に下る文坂。
文坂の石柱
文坂の石柱

文坂石柱の裏面坂名石柱が、道半ばにあります。

裏面には「昭和五十年一月 駿河台西町会 坂内熊治」と彫られています。
町会の方は消えた文坂のことをご存知だったのかもしれません。

と、フミサカ=文坂の想定で書きましたが、読者の方から「フミサカ」ではなく「コミサカ」と書いてある切絵図があるとご指摘がありました。

icon-arrow-circle-right フミサカ、文坂?コミサカ、ゴミ坂?のページに続く

安政七年(1860年)尾張屋江戸切絵図より「コミサカ」
安政七年(1860年)尾張屋江戸切絵図より「コミサカ」

ゴミ坂を考察した以下のページもご参照ください。

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もとはもっと多くのゴミ坂が存在したはずですが本名を隠しているケースもあり、ゴミ坂探しも面白いものがあります。

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