お江戸東京は家康入府以来、開発されていったわけで、それ以前は坂東武者が闊歩する荒野や沼地が拡がっていました。それらは開墾され、埋め立てられ、新しい道が開削されていきます。
故に、古鎌倉街道と云われている道が途切れとぎれに点在しています。新宿区の軽子坂、瓢箪坂から赤城神社にかけての道も古鎌倉街道と云われています。
文京区の目白坂あたりは鎌倉海道(海沿いの道)だったと江戸名所図会に書かれていて、江戸以前の古道だとわかるのですが、目白坂周辺の「関口」という地名も古鎌倉街道(奥州街道)に由来するという説もあります。
「目白下大洗堰」は江戸名所図絵にも紹介されていて「関口」の由来となったというのは、もっともな説なのですが、古鎌倉街道の関所に近いためという説。
どちらも間違いではないようです。
関口を過ぎ、西にやや行くと、鎌倉街道の関所があったと言われる宿坂があるのです。

この古鎌倉街道、さすがに古い道だけあって、江戸名所図会に登場する名所が多いようです。

今回は、この古鎌倉街道と云われている新宿区の道を走ってみます。
面影橋から
今ではここ都電荒川線だけになってしまった都電の面影橋駅。

面影橋から新宿区方面、南側を見ると、細い道が見えます。
これが、古鎌倉街道と云われている道です。人馬のみならば、これでもメインストリートでよいと思うのですが、それにしても細い道です。
この道のすぐ東側に、名所「甘泉園」が佇みます。
甘泉園
都会の新宿区にこんなに静かな庭園があったとは驚きの一言です。

江戸時代、清水家の江戸下屋敷の庭園だったところですが、頼朝ゆかりの地でもあります。
治承4年(1180年)8月17日、以仁王の令司により、平氏追討のため、伊豆韮山で挙兵します。その後、源頼朝軍は石橋山の戦いで敗北。真鶴岬から8月29日、安房の猟島(カガリジマ、今の千葉県勝山)へ小舟で上陸。この地から再起をかけ、鎌倉へ登る途中、最初300騎だった軍勢は関東の反平氏勢力を巻き込み、40000騎に膨れ上がるのでした。
まさに、いざ鎌倉。甘泉園のある早稲田一帯は、鎌倉へ登る途中の頼朝の軍勢が馬揃え(軍事パレード)をしたと云う伝説の地です。
甘泉園には頼朝が愛馬の足を冷やした泉があったと江戸名所図絵では語っています。

江戸名所図絵の記事 相伝ふ。右大将軍頼朝卿、此の高田の地に軍兵勢揃在りし頃、此の御神を勧請せし給ふ伝々。この山岸に少し計りの甘泉あり、これを山吹の井と呼べり、土人或は三島明神の御手洗、又は頼朝卿のうまの冷やし場なりともいひ伝へたり。
この湧水は地下鉄の工事等で干上がってしまい、今は消滅していますが、甘泉園の裏手には、水稲荷神社、頼朝が勧請したとされる三島神社があります。


鎌倉街道よりも古いもの、古墳もあります。


これらは昭和38年、お隣の早稲田大学敷地内から移転されたものです。新宿区戸塚地区の由来になっている冨塚古墳。ダンプカー600台分の古墳のお引越しだったようです。
ここは神田川が削った非対称河岸段丘。目白台側は切り立った崖なのに、早稲田側はなだらかな勾配です。古代、海の入江だったからなのか、地質が違うのか、なぜ非対称なのか?明確な答えはないようです。
いずれにせよ、入江の両岸で古代人が生活し、古墳文化さえ持っていたことは、間違いのない事実です(目白坂の謎の碑の項参照)。
高田の七面堂
甘泉園を出て、古鎌倉街道を南に緩やかに登っていくとすぐ、赤い門が見えてきます。
江戸時代、将軍家の祈祷所だった亮朝院(りょうちょういん)。地元の方は親しみを込めて「赤門さん」と呼んでいます。門をくぐると江戸名所図絵さながらの光景が広がります。



江戸名所図絵にも描かれている石造りの仁王様。仁王様と言えば、普通は門の左右で睨みを利かしているものですが、誰でも触って信仰できるようにと、石造りにしたと云います。そう思うと愛着が湧いてきて、等身大の仁王様を優しく撫でています。

仁王様もさることながら、狛犬も特徴的です。
頭に窪みがあり、ロウソクを立てたようです。祈祷のために必要だったのでしょうか?
高田の馬場
朱塗りの門を出て、また古鎌倉街道を南へ登ります。最後は行き止まり?。いや、江戸時代初期に、高田の馬場(馬術練習場)造成で分断されたのです。


古鎌倉街道は茶屋町通りに突き当たります。
高田の馬場は、見物客も多く、また、雑司ヶ谷鬼子母神への参拝客も多かったので、8軒の茶屋があったと云います。
茶屋町通り
茶屋町通り自体、鎌倉海道だったと云われており、古い道です。そうだとすると鎌倉街道と鎌倉海道が交差していたことになり、頼朝の軍勢が集結する地としては合点がいきます。
また、雑司ヶ谷鬼子母神への道ということは、ここがかつてのメインストリートだったことを匂わせます。鬼子母神へ行くために、今では、この道は通りません。

高田の馬場で有名なのが、堀部安兵衛の「高田の馬場の決闘」です。義理の叔父の喧嘩の助太刀をした堀部安兵衛を讃える碑は現在、水稲荷神社の入口近くにありますが、元は茶屋町通りにあり移設されたものです。


大正期の地図に大きく表記があります。茶屋の一つであった「甲州屋」が、この碑を建立。
講談等で誇張された安兵衛の真の姿を残すための碑だと云います。

講談では八丁堀から走ってくることになっていて、あまりにも誇張され過ぎています。
当時、安兵衛は文京区にあった堀内道場に通っていて、新宿区の納戸町(市ヶ谷近く)に住んでおり、そこから徒歩の行程です(新宿区夏目坂と中山安兵衛の項参照)。
決闘が行われた地は、新宿区の資料によると、今の早稲田通りに面する「西北診療所」の辺りとされていますが、定かではありません。

高田の馬場の周りを一回りし、早稲田郵便局の対面、向こう側に古鎌倉街道は続きます。
この細い道を行くと学習院女子大学に突き当たり、街道は消滅します。
ここは江戸時代から尾張徳川家の下屋敷の大きな敷地により、古鎌倉街道は消滅していて、近世になると陸軍戸山学校があった地です。

中世の古道がまだ、東京の都会、新宿区に残っていて、頼朝伝説ゆえか、江戸時代から名所の多い道でした。
と、淡々、且つ、極めて真面目に書き終え、校正をワトソ子くんに頼むと、彼女からメッセが。
「坂道社長、この古地図の痕跡が豊島区の鎌倉街道に残っていますよ。探してみてください」
「なにっこれっ?щ(゚Д゚щ)マジっすか⁈」
豊島区の鎌倉街道をゆく(前編)へ続く。
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