前回の目白坂を散策中に見つけてしまった解読できない碑。
深い歴史の何かが秘められているような書体、そしてその独特、異様な形。切り出して、そのままの岩に文字を掘ったようにも見えます。
このようなものを見てしまったからには、坂道探偵は、考古学者になったかのように、血が騒ぎます。
まずはこのお社の調査から始めましょう。何か解読のヒントがあるかもしれません。
幸神社
ここは、幸神(こうじん)社。それほど古さを感じないので再建されたものと思われます。
幸神(こうじん)社 関口2-5-1 祭神は、猿田彦命・稲荷大神である。道山幸神社または駒塚神社とも称した。 創建年代は不詳。江戸時代、当社の祭神の猿田彦命の神像は、その昔当地の崖下が入江であった頃、海中より出現した神像で、神体全体に蠣殻が付着していたと伝わる。かつては神木の榎が植えられた庚申供養塚があり、そこに猿田彦命を安置したという。 幸神社が面する道路は、かつて「清土道」とよばれ、江戸・東京から練馬などの西北近郊の村々とを結ぶ主要道の一つであった。 道の神である猿田彦命を祀った当社は、清土道における江戸・東京の出入り口に位置し、道行く人びとの安全を祈った祠であった。 文京区教育委員会 平成27年8月
文京区教育委員会設置の説明板は、江戸名所図会の挿絵付きの親切さです。

そして、江戸名所図会の本文はというと
幸神祠 同所東の方、道を隔てて右側にあり。道山の幸神、あるいは駒塚の社とも号く。祭神は猿田彦大神なり。 庚申の日をもって縁日とす。社司は宮城島氏なり。相伝ふ、往昔このところに豪民あり。 いまもこの辺りを長者の廓といふ。金の駒を塚に築き籠め、榎樹を栽ゑて、かしこに幸神を勧請す。 当社の神体は、昔この麓入江なりし頃、その水中より出現ありしゆゑとて、いまもなほ全体に蠣殻の類付きてありといふ。 古へこの辺鎌倉海道なりしゆゑに、道山の号ありとぞ。 中古おほいに荒廃して、神木の榎の下わづかの叢祠のみ存せしを、その頃の神主政泰なる者、いまのごとく祠を営み建つるといふ。 里諺にいふ、延宝の頃、金の駒の精あらはれ出でて、この辺の田畑をあらす。里民これをみること数度なり。 追ふときは山谷に隠る。その谷を駒が谷と唱ふ。また橋の上にてその駒の行方をみうしなふゆゑに、その橋を駒留橋といふなり。
要約すると……
東に向かい右側にあるのが「道山の幸神」または「駒塚の社」。
祭神は猿田彦で、庚申の日が縁日、社司は宮城島氏。昔、このあたりに豪農が住んでいて、今でも「長者の廓」と云います。
豪農は金の馬の像を作り、この塚に埋め、榎木(えのき)を植え、祠に「幸神」を祀りました。
この社の御神体は、昔、この裏が入江だった頃、海から出現したと云われ、今でも全体に貝類が付着しています。
中世、このあたりは鎌倉海道(鎌倉街道、海沿いだったので海道)だったので「道山」の号があります。
その頃、大いに荒廃しご神木の下に小さな祠を残すのみでしたが、その頃の神主「政泰」という人が、今のような祠を建てたと云います。
言い伝えでは、延宝(1673〜81年)の頃、塚に祀った「金の駒の精」が現れ出て、この辺りの田畑を荒らしました。その光景を里の人々が何度も目撃しています。
駒を追いかけると谷に逃げ込み消えたそうです。その谷を「駒ケ谷」と云います。また、ある時は橋の上で、その駒を見失ったので、その橋を「駒留橋」と云います。
これらの資料から想像できること。
1. 裏側が海の入江(今は神田川)だったことから、元は海の荒ぶる神を鎮めたのであろう「荒神社」。
御神体が海から上がったとも云っています。
2. 祭神が猿田彦、縁日は「庚申の日」なので、庚申信仰からくる「庚申社」。
庚申信仰 庚申(かのえのさる)の日(60日ごと)人が眠ると三尸(さんし)の虫が人の体から出て天にのぼり天帝にその人の罪を告げるというところから、人びとは一晩中夜明かしをした。 仏教では、庚申の本尊を青面金剛および帝釈天に、神道では猿田彦神としている。これは、庚申の「申」が猿田彦の猿と結び付けられたものと考えられる。
3. それらを経て、音が同じで、良い漢字を当てた「幸神社」と、呼ばれるようになる経緯が読みとれます。
4. 「中古おほいに荒廃して」と云っているので、一度か二度、消滅して、その都度、再建されているのかもしれません。「鎌倉海道」とも云っているので、お江戸以前の、かなり古い歴史がありそうです。
目白坂は、中世に鎌倉海道、そして江戸時代には、清土道(清瀬方面に通じる道)だったのです(この辺りは鎌倉街道だったと云われる古道がたくさん存在します。「古鎌倉街道を行く」シリーズをお参照ください)。
5. 「金の駒」伝説に関しては、後付けでしょう。江戸時代になってから、この辺りは関口駒井町(目白坂、目白不動と関口水車の項参照)と呼ばれ、馬の取引が盛んに行われた地だったためと思われます。
では、金の馬の像を埋めた塚とは、いったい、何だったのでしょうか?
駒塚の社
この社は「道山の幸神」または「駒塚の社」とも呼ばれたとあります。「塚」というものは、一里塚などに見ることができる様に、こんもりしたものです。
そして、江戸初期の地図を見ると……

「クヤウヅカ」とあり、道の真ん中に○。

「供類塚」、そしてやはり道の真ん中に○。
今では消滅している道の真ん中にこんもりとした塚があったようです。この塚は何なのでしょうか?。
近くの旧町名「高田老松町」の例を見ると、鶴と亀、二本のマツが植わっていたのは前方後円墳の前後だったと云います(二つの幽霊坂についての考察の項参照)。
その例からすると、こちらの塚は円墳だったのかもしれません。
幸神社は創建年代は不詳とありましたが、古くは円墳の上に作った小さな祠だった可能性があります。
その円墳を掘ったら、人骨と金の副葬品が出土した。人骨は馬の骨ということにされ、金の副葬品は「金の駒」伝説となった。そのような推測が成り立ちます。
いまでこそ、考古学という学問が成り立ち、円墳、古墳時代のことも皆、知っているのですが、江戸時代の人が塚を掘って、石室、人骨、副葬品の金やらが出土したら、さぞかしビックリしたことでしょう。そして、いろいろな想像を巡らし、伝説が生まれたのかもしれません。
ここ、小高い目白台地は太古の昔から陸地だったのです。古墳時代から人々が住む文化圏で、中世には「鎌倉海道」を人馬が行き来し、こんもりした塚に生えていた榎木(えのき)は、人馬、船舶の目印だったのかもしれません(一里塚の55%は、よく育つ榎木だったと云われています)。
海の入江があった中世では「荒神社」。庚申信仰が盛んになる江戸初期には「庚申社」。そして、江戸後期、良い漢字を当てた「幸神社」となったと、想像できます。
さて、社のことはわかりました。肝心の碑は?ビックネームは登場するのか⁈