江戸切絵図を見ると、神田川と目白坂の間に、この目白地区の名の由来になった「新長谷寺別当目白不動」があります。
新長谷寺は戦災で焼け、廃寺となり、目白不動尊は豊島区の宿坂の金乗院にお引越しなされています。

江戸名所図絵では、目白不動の伽藍とともに、目白坂が描かれています。

料理屋、茶屋はあるものの、市ヶ谷亀ヶ岡八幡、牛天神にあったような芝居小屋、楊弓場などのプレイスポットがなく、なんとなく上品な雰囲気。
なぜかというと、目白不動は三代将軍家光公の庇護を受けてからというもの、他の寺社に比べ、別格だったようです。
資料によると境内の立て札には
第一 境内に於いて鳥獣及細虫の類を害すべからず 第二 樹木を折取及び地を掘るべからず 第三 塵埃洟唾を以て寺中の浄地を 汚すべからず 第四 酒肉五辛を携帯して入るべからず 第五 日没後女入るべからす 第六 寺中に於いて吸煙を薫ずべからず 第七 歌舞戯謔及囲碁相撲を為すべからず
獣、鳥、虫さえ採ってはいけない。木を折るな。土を掘るな。ゴミを捨てるな。鼻水出すな。唾吐くな。酒、つまみ、持ち込み禁止。日が暮れたらデートするな。禁煙。見せ物・囲碁・相撲興行禁止。。。と手厳しい。
寺社はお江戸のプレイスポットだったという私の持論からすると、なんとも拍子抜けです。
ドンチャン騒ぎをしたいなら、近くの桜木町へ(大日坂の項参照)ということなのかもしれません。
このあたりは、清潔で、風光明媚な場所だったのです。この地ゆかりの松尾芭蕉が句を詠んでいます。(胸突坂と神田川の項参照)
五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋 芭蕉
橋の架かる神田川が流れ、向こうには早稲田田圃が広がっていたのは確かです。
眺めが近江の瀬田にある義仲寺に似ていたので、ここを見立てて詠んでいます。
そのような景観に恵まれて、目白不動は、心安らかに、祈りを捧げる癒しの空間だったと思われます。
また、門を入って右側に、「鐘樓」があります。
これは、時刻を告げる時の鐘「目白の鐘」として親しまれていました。
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切絵図には、神田上水(お江戸の飲料水用水道設備)の堰を確認できます。
お江戸の最新テクノロジーとして江戸名所図絵にも描かれています。
神田上水が暗渠となった後も大洗堰は存在し、昭和12年(1937年)、江戸川(大洗堰からお堀までの神田川を特に江戸川と呼ぶ)の改修の際に取り壊され、かつて堰があった跡には大滝橋が架けられています。今も江戸川公園に大洗堰の遺構を見ることができます。

この堰はこの辺りの地名「関口」の由来となっています。

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軍事用の水車があった?
あまり知られていない話ですが、関口には元禄13年(1700年)から水車がありました。神田上水から掛樋(木製パイプのようなもの)で水を引き水車へ落とし神田川に流す構造です。

最初は米つき、製粉に使われていましたが、幕末には水力で大砲の砲身を穿つ(砲身の穴を開ける)ために使われていたことがあります。経緯はというと、、、
幕末、慌てる幕府

湯島聖堂の西隣りは始め「桜の馬場」という馬術練習場でした。
嘉永6年(1853年)、ペリーが来航してからというもの、幕府は危機を感じ、ここに「湯島大小砲鋳立場」を建て、本格的に大砲の生産に乗り出します。
青銅製の大砲の銃身を穿つ作業を外注していたのですが、キリを使い人力で正確に大砲の穴を開けてゆくなど、到底無理な話。
粗悪品の山を抱える結果となります。
そこで幕府自前で、水力(水車)を使ってキリで穴を開けることを考えます。お堀の水運を使って砲身を運べる水車といえば、神田川の関口だったのです。

文久2年(1862年)、幕臣、小栗上野介が中心となり、関口水道町に「大砲錐入り場」が開設されます。
しかし、この頃すでに欧米では、青銅製の大砲から、最新の高性能な鉄製へと主流が移ります。
元治元年(1864年)、幕府は滝野川に反射炉を作り鉄製大砲の製作へと方針変換。全く忙しい慌てぶりです。
関口の大砲製作所は割と短い年月でその役目を終えています。 関口で作られた大砲は「フランス式山砲」40門、「カノン砲」28門。「山砲」は影義隊の戦い(慶応4年1868年)で使用されたと云います。

のどかな水車
その後、関口の水車は元の農業用へと。のどかな光景を取り戻します。

写真が趣味だった最後の将軍慶喜公は、明治36年から小日向新坂脇に、屋敷を構えていたので、関口までは歩いて10分足らず。
関口の風景を写真に収めています。

竹久夢二の最初の奥さん「岸たまき」は、関口近くの早稲田鶴巻町で絵葉書屋「つるや」を営んでいました。夢二は彼女の元へ足しげく通っていたので、この辺りは周知の場所。
この水車も描いています。

明治41年8月の台風で壊れた水車と壊れたハート?。ナイーブすぎます、夢二先生。
目白坂を登る
お江戸の坂道らしく、クネクネ曲がり、だんだんとキツくなってゆく目白坂。
坂道ダッシュには最適ですが、今でも江戸切絵図と同じ並びで、寺社が多くあり、寄り道してしまいます。
旧町名「関口駒井町」の案内板もあります。

旧関口駒井町 古くは、関口村の畑池であった。宝永元年(1704年)町家を設け、元文2年(1737年)ころ町奉行支配となった。 町名の由来は明らかではないが、「若葉梢」に次の記事がある。駒止橋(現・駒塚橋)の項目に、丸太橋であったころ、この上四ツ谷の南土手に馬多く宿して、駒込の馬市に出していた。目白不動の門前駒井町にも駒店(馬を売る)があった。 駒店があり、駒がいるから駒居ー駒井の町名が生まれたのであろう。 明治4年、新長谷寺門前、大泉寺門前および武家地を合併した。目白坂上に新長谷寺があった。「時の鐘」として有名であったが、戦災にあい廃寺となった。
坂を登ると、最初にみえてくるのが大泉寺(1600年創建)。

大泉寺のお隣が永泉寺(1634年開山)。太宰治の心中相手といわれる「山崎富栄」の墓があります。

次は、少し奥まったところに養国寺(1624年創建、1610年とも)。

最後は、正八幡神社(創建年不明、1606年、1611年とも)。

関口八幡宮とも呼ばれ、江戸名所図絵にも描かれています。
鳥居をくぐり、階段を登り、本殿が見えてきます。
昔と変わらない情景です。
目白不動の跡には、今では高級マンションが建っています。

謎の碑発見!
目白坂を登りきり、もう少し行くと小さなお社があります。この境内に入り、お参りしようとすると、
えっえ〜〜щ(゚Д゚щ)!
変わった碑を発見!読めない!なんと書いてあるのか、さっぱりわかりません。しかも立入禁止って!
坂道探偵の出番です!謎の碑の解明なるか?新たなる事実も!
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