新壱岐坂

武家の名がつく坂3ー壱岐坂

壱岐坂下交差点壱岐坂下交差点。壱岐で想像すると「壱岐守」。かつてあった大名屋敷由来の名なので、お江戸の頃はさぞかし細い道で、近年、拡張したのだろうと思い込んでいました。
いや、待てよ?、松平播磨守の名からとった太くて長い「播磨坂」は戦後復興の坂でした。近くの「忠弥坂」も関東大震災後にできています。そのように思うと、この坂、江戸時代から、こんなに真直ぐで長い坂だったのでしょうか?。疑問が浮かんできます。

壱岐坂通り
壱岐坂通り交差点。

壱岐坂通り交差点、壱岐坂上交差点まであります。これはお江戸の坂道としては長すぎます。

壱岐坂上交差点
壱岐坂上交差点。

昭和大正の地図を見ると、

壱岐坂の震災前後
大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図と昭和3-11年(1928-36年)1万分の1地形図の比較。

やはり、太い道が関東大震災の後にできています。
大正12年(1923年)の関東大震災の復興計画によって、新たに開削された昭和の坂、復興の坂なのです。
震災前の地図をよく見ると、「壱岐殿坂」があります。さすがは大名、安藤殿坂のように「殿」まで付いています。

この太くて長い坂は、文京区の坂道Mapでは新壱岐坂となっています。
本来なら、壱岐坂下交差点は新壱岐坂下交差点となるべきです。

文京の坂道Map
25:壱岐坂、26:新壱岐坂。

文京区の坂道Mapでは、壱岐坂は別にあります。これが壱岐殿坂です(以後、江戸時代からある壱岐坂は混乱を避けるため壱岐殿坂と表記)。

新壱岐坂を登る

新壱岐坂を登っていくと、彫刻のあるモニュメントがちょうど、新壱岐坂と壱岐殿坂の交差するところの小さな公園に設置されています。

壱岐殿坂のモニュメント

壱岐坂の碑(壱岐殿坂の碑)
江戸時代には、社寺や大名屋敷は、ほとんど移転することもなかったので交通の重要な目印となっていました。この坂は昔、この地にあった小笠原壱岐守の下屋敷にちなんで壱岐殿坂と呼ばれていました。
当時、小笠原家は、九州佐賀県唐津六万石の大名でした。壱岐坂は、白山通り(本郷1丁目20・22の間)から上り、東洋女子短大の所で通称大横町へ至る細い坂道です。
文京区土木部公園緑地課
モニュメントのある所から見た壱岐殿坂
モニュメントのある所から見た壱岐殿坂。

壱岐殿坂には、文京区土木部公園緑地課設置の碑と、新壱岐坂で分断された壱岐殿坂の東上部(通称大横丁通り)に文京区教育員会設置のものがあります。

壱岐殿坂
壱岐殿坂(大横丁通り)

壱岐坂説明板

壱岐坂
 「壱岐殿坂」ともいう。
 江戸時代からある古い坂である。近隣に屋敷があった武士の名前から坂名がつけられたとみられるが、江戸時代の地誌に「彦坂壱岐守」の屋敷があったことによって名付けられたとか、「小笠原壱岐守下屋敷」があったことによって名付けられたとかあって、江戸時代においても諸説がある(御府内備考)
 この古い壱岐坂は、新しくできた大きな新壱岐坂に途中で分断される形となった。
 文京区教育委員会 平成28年3月

これはつい最近、新しくなったものです。
以前のものはというと、、、

壱岐殿坂、以前の説明板

壱岐坂(壱岐殿坂)
「壱岐坂は、御弓町へのぼる坂なり。 彦坂壱岐守屋敷ありしゆへの名なりといふ。 按に元和年中(1615~1623) の本郷の図を見るに、此坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。 おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし。」(改撰江戸志)
御弓町については 「慶長・元和の頃御弓同心組屋敷となる。」とある。(旧事茗話)
文京区 昭和48年3月

服部坂の服部家は、江戸時代、変わることなく、そこにあり理解しやすいのですが、説明板を読んでみると、ここ壱岐殿坂周辺は、複雑なようです。

小笠原家、彦坂家を古地図で探す

各々の説明にある坂名の由来になった「小笠原家」「彦坂家」を古地図で探すと、幕末の切絵図では確認できません。

万延2年(1861年)尾張屋版本郷湯島絵図
万延2年(1861年)尾張屋版本郷湯島絵図。緑矢印の「イキトノザカ」。クリックで拡大。

坂道説明板にある「元和年中(1615~1623) の本郷の図」は手元にありませんが、以下の地図では、、、

古地図:正保年中(1645-1648年)江戸絵図
正保年中(1645-1648年)江戸絵図。グリーンラインが壱岐殿坂で開削途中のような表記。紫矢印が「小笠原壱岐守下屋敷」。

壱岐殿坂、昭和48年の説明板の「改撰江戸志」にあるように「吉祥寺」のお並びに「小笠原壱岐守」が確認できます。

改撰江戸志
 原本は残っておらず成立年代は不明だが文政(1818年から1830年)以前にすでに存在が確認されている。

おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし」と「改撰江戸志」が言っているように、屋敷・寺の移転が多かったエリアなので、江戸時代初期に付いた坂道名は、江戸時代中にすでに、命名の根拠が不確かになってしまっているようです。
寛文年間(1661〜1672年)ではすでに、、、

古地図:寛文10-13年(1670-73年)新版江戸大絵図
寛文10-13年(1670-73年)新版江戸大絵図。グリーンラインが壱岐殿坂、紫矢印が「小笠原」。赤矢印は本吉祥寺橋(今の水道橋)。
駒込の吉祥寺
駒込の吉祥寺

吉祥寺がなく、壱岐殿坂のクランクの仕方も変わっています。

因みに吉祥寺は振袖火事(1657年3月2日)後に駒込に移転しています。水道橋は大火前後は本吉祥寺橋と呼ばれていたのが、古地図上で確認できます。
この辺りの町人は大火後、今の中央線の吉祥寺に移住し、開墾し、彼らが、その地を吉祥寺村と呼んだのが地名の由来です。

彦坂家については時代が少し降り、寛政〜文化期の古地図に見出せます。

古地図:寛政新版江戸安見図(1797年)
寛政新版江戸安見図(1797年)。赤矢印に「ひこさか」。
古地図:文化江戸図(1811年)
文化江戸図(1811年)。赤矢印に「ヒコサカ」。

江戸時代と一言で言っても約260年間もあり、お江戸の頃はココに何があったとは言えないエリアのようです。
なぜ、そのように変遷があるのか?。
武家の配置転換はあったのでしょうが、振袖火事などの度重なる災害も大きな理由の一つです。どうやら、本郷は、江戸時代から幾度となく災害に遭い、復興してきた街のようです。

復興の坂道と復興建築

新壱岐坂、忠弥坂は関東大震災後にできた復興の坂道ですが、文京区本郷(かつては本郷区)は、関東大震災で壊滅的な被害を受け、焼け野原になったため、震災後の復興建築が多く残っているエリアです。

お茶ノ水坂に面する元町公園は、東京市帝都復興計画における52箇所ある小公園の一つです。旧元町小学校も不燃化構造の復興小学校です。

文京区元町公園
昭和5年開園の元町公園。
旧元町小学校
旧元町小学校。赤矢印の変わった窓は美術室。入光を調整しています。

その他、旧職業紹介所、昭和第一高校本館、桜蔭学園本館と、復興建築が密集しています(それぞれ昭和6年ごろ竣工)。

旧職業紹介所(トーキョーワンダーサイト)
旧職業紹介所
旧職業紹介所内部
旧職業紹介所内部

今は「トーキョーワンダーサイト」というギャラリーになっている旧職業紹介所ですが、内部に入ってみると、頑丈すぎる梁を見ることができます。

昭和第一高校本館
昭和第一高校本館
桜蔭学園本館
桜蔭学園本館
桜蔭学園の塀
桜蔭学園本館は外部の装飾もさることながら、塀のカーブさえ美しい。

震災の教訓から丈夫な建物を作ったので、今でも復興建築が多く残っているとも言えます。東日本大震災、熊本地震と、今も災害と戦う歴史が進行中です。文京区本郷エリアは江戸時代からの坂道(壱岐殿坂、外記坂)もありますが、復興の坂道、建築もあり、災害を乗り越えてきた歴史も感じさせてくれる街です。

災害を乗り越えてきたもの

本郷エリアは災害の度に発展していった街と云えますが、今も昔も変わらないものもあります。

瀬川家(旧古市家)住宅
明治20年代頃の築。明治27年(1896)頃より土木学者・古市公威が住み、関東大震災後、瀬川家が継承して今日に至っています。

瀬川家(旧古市家)住宅
ビルの奥に佇む瀬川家(旧古市家)住宅。

瀬川家住宅周辺には、防火用の煉瓦塀も残っています。

煉瓦塀

本郷弓町のクスノキ

本郷弓町のクスノキ、楠の木

江戸時代から「本郷のクスノキ」と呼ばれた名高い巨木です。地上1.5m高での幹周り8.5m。隣のビルの7〜8階まであるので、およそ25mくらいはありそうです。文京区で一番大きな樹木です。

古写真:ニコライ堂から撮った古写真

明治22年(1890年)、ニコライ堂から撮った古写真。外堀、お茶の水坂越しに、薄っすらと写っている当時のランドマーク的存在です。
この木は幾多の災害を乗り越え、この地にあり、これからも、ずっと、本郷を見続けていくことでしょう。

取材協力:本郷いきぬき工房

武家由来の坂道

武家の名がつく坂ー外記坂と消えゆく朝陽館本家
武家の名がつく坂2ー忠弥坂はあったのか?
文京区服部坂のメジャーじゃないけどオモロなポイント
安藤坂の大きなカーブはなぜ?

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