あれは春の初めのことでした。
雨の中、近所のお寺の源平桃を見て、涙がこみ上げます。
雨と強い風で散ってゆくのかと心配な日。四季の移ろいは悲しいもの。しかしながら、やがては新緑が芽生え、、、誰か止めろっヽ(`Д´)ノ
と思ったら、あっ、ワトソ子くんからのメッセだ。
「坂道社長、事件です!」
「ん?、私にとっての事件は花が散ってゆくことなんだよ、ワトソ子くん(涙)」
「(*´Д`*) 〜з、また、そんなあ、詩人ぶってる場合じゃありませんことよ!坂道社長の大好きな切支丹(キリシタン)坂関係ですのよ!」
ワトソ子くんは新聞の切り抜きを送ってきました。
要約すると
文京区茗荷谷の「切支丹屋敷跡」で2年前に3体の人骨が出土。うち1体は江戸時代のイタリア人宣教師シドッチの可能性が高いことがわかった。シドッチはキリシタン禁制下の日本に潜入した最後の宣教師とされる。 文京区によると、マンション建設に伴う発掘調査で、2014年7月に3基の墓と人骨が出土した。国立科学博物館によるDNA鑑定や、人類学的分析で、うち1体は「170センチ超のイタリア人中年男性」と判明。文献から「175・5~178・5センチ」の長身で享年47とわかっているシドッチの特徴とも一致したことから、「ほぼ間違いない」と結論づけた。禁教下の宣教師とみられる人骨で個人が特定されるのは初めてという。 別の2体の人骨は神父が入信させた夫妻の可能性があるという。1体は日本人男性と判明。もう1体の性別などは不明だが、歯にお歯黒のようなあとがあり、華奢(きゃしゃ)な骨のため女性と考えられるという。
えっ(*’д’*)、切支丹屋敷跡で、3体の人骨が出土。
イタリア人宣教師シドッチ神父(Giovanni Battista Sidotti)の遺骨が見つかる!だってぇ!
これは世界的な大ニュースですщ(゚Д゚щ)。
すぐ探偵社に帰り、ブログ解析をチェックするとアクセスがうなぎのぼり。
この2ページのアクセスが半端ではありません。
一日で777ページビューの記録を作ってしまいました。
これはたいへんなことです。
もう一度、キリシタン屋敷について調べなければと、坂道探偵は思うのでした。
御府内往還内沿革図書
今から約350年前の御府内往還内沿革図書を見ると、切支丹屋敷の変貌がわかってきます。時代とともにキリシタン屋敷は徐々に縮小されていくのです。

開設当初は水色エリア、1670年代で7700坪。
青色エリアは1705年頃、4765坪。
紫色エリアは1792年頃で2935坪と云われています。
青矢印が今の庚申坂(江戸・明治の地図では切支丹坂)、Aが、今は丸ノ内線の隧道と文京区公認の切支丹坂ですが、わたくし的は切支丹屋敷設立当初の入口の石段坂と妄想しています。その入口を示すかのように古写真(昭和40年代)では「切支丹屋敷の碑」が入口近くにあったようです。
切支丹屋敷の碑は移動され、今ではちょうど、縮小期のキリシタン屋敷跡に立っています。

そして、切支丹屋敷を調査する上で欠かせないのが「切支丹屋敷図(切支丹山屋敷図)」。ここに描かれている「長助はる夫婦の墓」(赤矢印)。これは今回見つかった男女2体に間違いないと思われます(断言はできない模様ですが)。この墓と並んで宣教師シドッチ神父が埋葬されたのでしょう。墓の出土位置から見て、この「切支丹屋敷図」は縮小に至る中間期の1705年からの図のようで、シドッチ神父が亡くなった年、1714年とつじつまが合います。青矢印の「大草家邸宅」が気になります。


長助とはる
切支丹屋敷幽閉第一号となった「ジュゼッペ・キアラ(カウロ)神父」。のちに改宗させられ、岡本三左衛門(1601年〜1685年)と名乗る。彼の世話をしていた夫、長助と妻、はるの夫婦。ジュゼッペ・キアラ神父の死後、しばらくして、1708年からシドッチ神父の世話をすることになります。
一説によると、二人とも隠れキリシタンの子で生涯、切支丹屋敷を出ることは無かったと云います。二人はシドッチ神父の優れた人柄に触れ、彼から洗礼を受け、キリスト教信者となります。信者にとって、信教を隠すことは恥ずべきこと。彼らは入信したことを自ら告白し、処刑されるのでした。
「沈黙 -サイレンス-」のモデル、ジュゼッペ・キアラの供養碑がなぜ此処にを参照
彼らの墓(赤矢印)はキリシタン屋敷内に作られ、死んでも、この屋敷を出ることは許されませんでした。
今回、出土した日本人男女と思われます。

169号墓はヨーロッパ系男性。長持転用の棺。ほぼキリスト教の埋葬形式。
他二墓は長助はる夫婦の可能性が高いと云われています。
シドッチ神父
ローマ法王から日本への布教の命を受けたイタリア・シシリー島出身の宣教師、ヨハン・シドッチ。彼が日本に渡来したのは宝永5年(1708年)でした。

渡日前の4年間、フィリピンのマニラに留まり、日本人漂流者などから、日本語、日本の風習を学び、「郷に入らずんば、郷に従え」で、チョンマゲ、和服、大小を脇に差して、屋久島へと上陸するのでした。時は鎖国下の日本。即刻、捕らえられ、茗荷谷の切支丹屋敷に収容されることとなります。
六代将軍家宣の時代、幕政の補佐役であった、新井白石が彼を尋問し、「西洋記聞」「菜覧異言」などの著作をもたらします。新井白石は彼からキリスト教の教義、西洋の学問(天文、地理学など)を聞き、シドッチ神父の人柄、学の深さに感銘を受けています。
新井白石はキリスト教の教義を否定しつつも、幕府に対して、神父を「イタリアへ返す」「幽閉する」「処刑する」の三策を上申しています。白石本人は、イタリアへ返したかったらしいのですが、幕府は幽閉作を採るのでした。
その後、長助、はる夫婦に洗礼を施したことが罪に問われ、土牢に幽閉されます。彼は自ら食を絶ち、天へ召されるのでした。享年47歳、正徳4年(1714年)。
調べれば調べるほど、良い人柄が感じられる偉大な方です。
キリシタン屋敷跡
予備調査を終え、シドッチ神父、長助、はるを想いながら、キリシタン屋敷跡を訪れます。

庚申坂(江戸、明治の地図では切支丹坂となっている)を下り、獄門橋があったであろう丸ノ内線の隧道をくぐり、キリシタン屋敷入口へ。
この辺りは調べた人によると「切支丹支」のプレートのある電柱が43本あると云います。電柱が歴史を物語るとは面白いことです。
そして、今はマンションが建つ現場へと到着。


あれっ?もう説明板があります。どうやら人骨鑑定の結果前に建てたもののようです。
なになに、これは素晴らしい。さすが文京区の台地。どこを掘っても縄文時代からの複合遺跡です。
なるほどぉ、切支丹屋敷図で裏門近くにある大草家(切支丹屋敷図上で青矢印)が気になっていたんですが、位置が確認できました。

これをじっくり見ていると、ご婦人に話しかけられました。世間の注目度が伺えます。私は予習をしているので説明はバッチリです。ウンチクを述べ、しばし歓談。
この説明板によると、遺骨の発見された場所は、マンションの駐車場辺りです。行ってみます。
ここで墓があった辺りを見ていると、また、紳士に話しかけられました。お墓のあった場所を探しているようです。
私がこの辺りだと教えてあげると、彼は神妙な顔になり、こう言います。
「日本人として、恥ずかしいことです。宣教師の墓を発見だなんて、あまり声を大きくして言えないことですね」
この紳士は、苦笑いをしています。
私は思わず「そうでしょうか?」という言葉を発しています。
少しばかり拍子抜けしたような紳士の顔付き。私は続けます。
「過去に何があったかを記録し、同じ過ちを犯さないために、歴史という学問があるのではないでしょうか?そんなことを言っていてはドイツのアウシュヴィッツ収容所はどうなるのですか?人々が何らかの反省をしに訪れているのではないでしょうか?」
ちょっと熱く語ってしまって反省する私は、気を落ち着け、続けます。
「ここには祈念堂を建てて、世界中の人が訪れるように期待しているのです。そうすればシドッチ神父の苦労は報われます。そして文京区から世界的な巡礼地が生まれるはずです」
紳士は苦笑いから、少しばかりの純な笑いに変わり、
「そうですね。あなたの言う通りかもしれません。同じ過ちを繰り返さないための何かが必要ですね」
最後に二人は無言のまま祈り、軽く挨拶をして別れました。
後日、ワトソ子くんと現場を訪れると、春の気配を強く感じます。
「桃も桜も散ってしまったけど、ほら、可愛いコデマリが咲いているよ。って聞いてないじゃん囧rz」
ワトソ子くんは古地図に見入りながら、言います。
「坂道社長!この地図によるとあたしが若い頃、旦那といっしょに住んでたアパートも切支丹屋敷の一部に入りますわ」
「え?旦那ってぇ、今の旦那?」
「もぉっ、当たり前じゃないですかっ!私は坂道社長の歴史を見て、勉強しているんです。坂道社長のような間違いをしてはいけないと、、、云々」
どこかで聞いたよなセリフ。耳が痛い囧rz。
お後がよろしいようでm(_ _)m。
【追記】
発掘されたイタリア人宣教師、ジョバンニ・バチスタ・シドッチの頭骨を基に顔の像が復元されています。
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