徳川慶喜公、終焉の地と新坂の謎

慶喜公は駿府での長い謹慎生活を許され、明治30年、東京に戻られました。このとき尽力したのが元幕臣の勝海舟だと聞いております。
慶喜公は最初の4年間、豊島区巣鴨に住んでいましたが、屋敷の隣に山手線が通るというので騒音を嫌い、文京区小日向に引越しました。今の慶喜公屋敷跡は国際仏教大学の敷地になっています。
大学の門の前にひっそりと徳川慶喜公屋敷跡の碑が建っているのと慶喜公遺愛の大イチョウの木があるだけです。
ググったら慶喜公小日向邸の写真が出てきましたが跡形もなく変貌していますねえ。慶喜公は大正2年この地で亡くなったそうです。享年76歳、歴代将軍の中で最長寿だったそうです。


国際仏教大学の脇の新坂から見ると丸の内線と隣接していますので慶喜公はまたまた引越したと思われます(  ̄ェ ̄)。


小日向の新坂はなぜ作られたのか
慶喜公も歩いたと思われるこの新坂は改修されて走りやすい坂道です。新坂というくらいだから新しい昭和の坂かなあ、と思いきや江戸時代に開削された当時としては新しい坂(1710年代に開削といいます)。
なので新坂という名になったらしいです。ではなぜ、この坂を開削したのでしょうか?疑問に思い古地図(嘉永七年尾張屋版 )をみると、
シンザカの表記があります。その西隣の無名の坂(キリシタン坂という人もいる、キリシタン坂を参照)は木戸で閉ざされています。
この坂の入口には、いまでも木戸番ならぬ交番があって笑ってしまいますわ(*’ヮ’*)。なんとなく木戸も想像できてワクワクします。地図オタの楽しみの一つです。



また、天保十四年岡田屋版で見ると

川とも沼地ともつかない表記になっています。この坂は湿地帯の一部で尚且つ木戸で閉ざされ、武士しか通れなかった坂だったと想像できます。なのでもっと歩きやすい、町人も通行可能な道として開削したのだと妄想しております。
なるほど合点がついた( ̄∧ ̄)(_ _)フムフム・・・
新坂という名前の坂は文京区に6つもあるといいます。新坂めぐりランなんてえのも考えてしまいます。
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