武家の名がつく坂2ー丸橋忠弥の忠弥坂はあったのか?

最近、古いガードレールに興味を持つという、人様には言えないフェチな趣味を持っている坂道探偵社社長であります。

様々なデザインのガードレール

お茶の水坂のガードレール、補修タイプ
お茶の水坂

お茶の水坂のガードレールは、明治のもので戦中の金属供出で鉄パイプが抜かれています。

坂の古いガードレール
茗荷谷

茗荷谷のガードレールにも金属供出の跡、明治期のデザイン。明治後半に坂の脇に池があったことからその時代と推測します。

旧東富坂のガードレール
旧東富坂

旧東富坂は丸の内線の開通によってできた坂なので、昭和30年代のもの。当然ながらパイプも抜かれていません。

淡路坂
淡路坂

昌平坂と対をなす千代田区側の淡路坂にあるガードレールは戦後の立派なもの。

石柱造りで鉄パイプ。各時代とも今のガードレールと違い味があります。

ガードレールに興味が湧いてからあちこち廻り、ワトソ子くんにも調査を依頼した時のことでした。ワトソ子くんは、いつものようにメッセンジャーで写真を送ってくれました。

「坂道社長、忠弥坂にもありましたわ」

忠弥坂のガードレール
忠弥坂にあるガードレール

「ああ、丸橋忠弥由来の忠弥坂かぁ、おっ、これは昭和後期のデザインかな?パイプもあるし、戦中の金属供出跡がないから時代を裏付ける証拠になるね」

「ですです。でもね、社長!ガードレールが新しいデザインなんですよ、それにぃ……」
「それにぃ、なぬ?」
「坂の雰囲気が何か違うんです」
「ん?」
てなわけで……

坂道探偵出動!

ワトソ子くんは何に違和感を感じたのだろうか?
お江戸初期の武士の名を冠した坂に何を感じたのだろうか?

忠弥坂に思いを馳せ、走って行く途中、おもむろに変なものを見つけてしまいました。

地下鉄のくるくるシンボル
地下鉄のくるくるシンボル

何年か前に石原慎太郎前都知事が「地下鉄の駅を目立たせたい!」と言い出し、「看板のようなものじゃなく、動いたりした方がいい」とのことでこういう物が作られたらしいです。

これって床屋さんのくるくる回っているやつみたいなのですが、あまり浸透していません。地下鉄に乗りたいならまずは地下鉄マークの看板を探します。

回ってすらいないし、このサインは全く目に入らず。
無用の長物、新たに作られたトマソン物件ですわ、こりゃ。

やっと、忠弥坂へ。

工芸高校現場に着くと、ただならぬ雰囲気ではなく、綺麗な坂ではありませんか。

工芸高校がなければ崖上からの見晴らしはさぞかし良かったのでしょう。

そんな景色のいい坂なら、江戸時代に既に名所になって「江戸名所図絵」にも載っているはずです。ん?

忠弥坂坂上から
忠弥坂坂上から
外記坂坂上から
外記坂坂上から。微妙にくねっている。

そっ、そうか、ワトソ子くんが言っていたのはこのことだったのか。風貌が良すぎるということだったのです。

江戸時代からの坂道というのは、後年、整備したとしても何らかの特徴を残しているものです。

例えば、外記坂は地形のわかる明治の地図の等高線で見るように坂の中ほどでうねっています。

古地図:外記坂の微妙なうねり
外記坂の微妙なうねり

赤城坂また、赤城坂は坂上部の傾斜がキツイため、クランクして登っていました。

しかし車両通行のためクランクを無くしたので傾斜は凄いものがあります。

当然、ドーナツ坂(滑り止めの丸い模様付き)で、車両は下りの一方通行です。

古地図:赤城坂クランク部分
赤城坂クランク部分

上記のような特徴があると、いくら整備してお化粧しようとも、古くからある坂だということがわかるのです。

忠弥坂はどうかというと、

忠弥坂
凸凹のない忠弥坂

傾斜が激しく変わることなく、穏やかなカーブを有しています。怪しいです( ̄ー+ ̄)ニヤリ…。というかこの坂は車両用に作った新しい坂だと確信を持ってしまいました。

忠弥坂坂道説明板

坂道説明版によると

坂の上あたりに丸橋忠弥の槍の道場があって、忠弥が慶安事件で捕えられた場所にも近いということで、この名がつけられた。
道場のあった場所については諸説がある。
慶安事件は、忠弥が由井正雪とともに、慶安4年(1651年)江戸幕府の転覆を企てて失敗におわった当時の一大事件であった。
忠弥の名は、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物としても有名である。
東京都文京区教育委員会
平成元年3月
鈴ヶ森刑場跡
鈴ヶ森刑場跡。
丸橋忠弥の処刑台座
丸橋忠弥の処刑台座。

お江戸初期のクーデター武士の名「丸橋忠弥」、忠弥坂という名を聞くと、誰でも古そうな坂と思ってしまいます。
「丸橋忠弥の槍の道場」の所在がどこかわからないとな⁈、、、網干坂の堀部安兵衛が通っていた直心影流の堀内道場と同様、町道場は、屋敷の一室ということもあり、所在が分からなくなるのが当然で、むしろ、分かる方が稀です。

明治の地図を見ると

古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より
明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より
グリーンラインが忠弥坂の出来るルート。

ややや、スゴイ崖っぷち!(私の人生のような!)で、忠弥坂は無いのです。

古地図:万延2年(1861年)尾張屋版本郷湯島絵図より
万延2年(1861年)尾張屋版本郷湯島絵図より
グリーンラインが忠弥坂の出来るルート。

江戸切絵図でも、忠弥坂は、もちろん無いのです。

ならば、いつ忠弥坂はできたのか?

そう思い地図を見ると、

左:大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図 右:昭和3-11年(1928-36年)1万分の1地形図
左:大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図
右:昭和3-11年(1928-36年)1万分の1地形図 グリーンラインが忠弥坂

この坂は関東大震災後に出来ています。
道理で整然とした坂なわけです。

金比羅様
金比羅様

金毘羅宮も元はこの崖下にあったようですが震災で焼失、50メートルばかり北側に遷座しています。復興小学校の元町小学校も出来ています。

復興公園である元町公園(お茶の水坂の項参照)は造成中か?。

関東大震災の瓦礫を片付けるために、重機を入れるために、昼夜(忠弥に掛かる)を徹して作った復興の坂なのかと妄想してしまいます。坂名の由来はむしろこっちの方かもしれません。

ワトソ子くんに一件落着のメッセをするかとスマホを出すと、
背後で声が……

「あら、坂道しゃっちょさん!」

どこかのバーで聞いたようなイントネーション!
ハッとして振り返ると、そこにはFB友のガンダム女史が。
ああ、ここはガンダム女史の家の近くだったのです。

「忠弥坂?、地元じゃ、桜陰の坂って呼んでるよ」

はあ(ノ゚⊿゚)ノ、確かに桜陰学園の脇の坂です。忠弥などというレガシーネームは使っていないようです。また「昼夜」由来説が浮上してしまいました。

変なもの

「そうそう、ちょうど良かったあ、神田明神に行ってきたんだけどね〜、いつもと違う道で。途中、傘谷坂(からかさだにざか)の近くで変なもの見つけちゃってさあ〜」

新たなる事件の予感が……。

次号(傘谷坂の謎のお像)へつづく

武家由来の坂道

武家の名がつく坂ー外記坂と消えゆく朝陽館本家
武家の名がつく坂3ー壱岐坂
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