ある秋の日、朝の坂道探偵社。
ワトソ子くんが珍しく差し入れを持って来社したのです。
「坂道社長、スコーンを焼いたのでお持ちしました」
「あっ、ありがとう。イングリッシュティーにスコーン、さいこう!だね」
と私は言いつつ、心の中では「旦那さんと二人で食べきれないほど焼いたな」と呟く、、、
「スコーンと生クリーム、ブルーベリージャム、そして香り豊かなアールグレイ。なんともいい組み合わせだね。シドニーにいたときはデボンシャーティーと言って朝のご挨拶がわりの習慣だったよ」
そう言いながら、お茶を入れ、くつろぐことにしようと決め込んだのもつかの間、スコーンを食すと、
なんと、歯が立ちません( ゚д゚ )!かっ、硬い!
そんなことは言葉に出さずに、すばやく察知。
ワトソ子くんは失敗作を持って来たのだ。うーん、旦那さんには食べさせられない。きっと、貧しい坂道社長なら食べるだろうと思い、わざわざ持参したのだ。私の推理は100%当たっていると、妙な確信を持つことに、ためらいなどはありませんでした。
ワトソ子くんは、私の反応をいたずらな瞳で見つめ、小さく笑いながら、話を切り出しました。
「坂道社長、昌平坂って、相生坂とも呼ばれていたんですよね」
「そうだよ、神田川を挟んで両側に坂があったから相生坂さ」
「それは、よくわかるのですが、新宿区の相生坂って、川の両側でもないし、ましてや、高台の両側でもないの。これってなぜなのでしょう?なぜ、平行する坂道が必要だったの?」
「え(*’д’*)!、そっ、そうだねぇ、それって疑問を解決しろっていうこと?」
「はい!そのとおりでございますわ、笑」
しばらく世間話をしたのち、ワトソ子くんはドアにおじぎをするように帰っていった。
六尺五寸の大女。長身がゆえに首を折らないとドア枠にぶつかる!。なので、おじぎをするような格好になるのです。
ああ、難問を頂いたものだと私のため息がガラス窓を曇らすのでした。
石切橋
悩んでいても始まらない。行動するのみ。
文京区の坂道探偵社から新宿区へ行くには石切橋を渡るのです。

寛文年間(1661〜73)の架橋といわれ、江戸川(神田川の中流域を指す)に架かる最も古い橋の一つで、このあたりに石工職人が多く住んだことに因む名です。また、江戸川大橋とも呼ばれ、幅の広い橋だったそうな。
石という観点からみると、交差点角に石が多いし(余りの石材か?)、近所の大日坂下には石材屋さんが一軒残っています。
アンパンマンとスヌーピーのディスプレイ(笑)。今から260年後、こんな墓石ばかりで、墓石に刻まれた「平成」の年号を、彼女がわり、パソコンがわりのアンドロイドに検索をお願いしているのかと妄想するとまた(笑)。
お江戸の歴史を考えると、寺社は多いし、斜面に武家地。墓石、平地を確保するための石垣など、大量の石材が必要だったはずです。なので自ずと石工が多くなります。
なぜ、古くからここに橋があるのか?考えなくとも地図オタならすぐわかります。

橋を渡ると、南にまっすぐ道が延びていて赤城坂、赤城神社裏門へと続きます。赤城神社は戦国時代からそこにあり、お江戸の街並み造成の過程で、歓楽地としての赤城神社へ行く道、坂、橋は整備されてゆくのです。
五軒町
あっ、調査対象は橋ではありませんでした。相生坂です。
神田川(江戸川)沿いを下流に下り南側、目白通りの向こう側に相生坂へと、まっすぐに続く道が見えてきます。

お江戸の地図(嘉永七年(1854年)安政四丁巳年 (1857年)改尾張屋刊江戸切絵図)でみると、緑色の長方形と馬場(小日向馬場という)の文字が見えます。
馬場の建設をこの地の請負人五人に依頼。相生坂に、土地を拝領し住んだのでこの辺りを一帯を「五軒町」(西五軒町と東五軒町)と呼んでいます。
また、明治の地図をみると、目のつくのが池の数々。
これって何?

江戸川の文京区側にはウナギの名店があります。

そーです。明治の地図の新宿区側、たくさんの池はウナギの養殖場だったのです。
今ではウナギの養殖といえば浜松ですが、物流が進化するまでは、ウナギの養殖といえば、この辺りだったそうです。
相生坂
五軒町を南に進み、いよいよ相生坂です。いつか書いたように二本平行してある相生坂は区別するため、地元では相生東の坂、相生西の坂と呼んでいます。

坂道説明柱には
「続江戸砂子」によると「相生坂、小日向馬場のうえ五軒町の坂なり。二つ並びたるゆえの名也という」とある。また「新撰江戸誌」では鼓坂とみえ「二つありてつづみのごとし」とある。
一方「御府内備考」「東京府志料」では坂名の由来は、神田上水の対岸の小日向新坂(現文京区)と南北に相対するためであると記されている。
後半の青色部分、文京区側の小日向新坂と対を成すと言っていますが、ここから600メートルも北にある坂と相対って、それりゃそうだけどかなり遠い。
江戸時代なら相生坂の上から川向こうの、神田上水向こうの小日向新坂は見えたはずで、これはこれで一理あります。
お江戸の人はずいぶんと壮大なことを考えたものですが、見通しの良いところだったと伺え、景色を想像するとお江戸にタイムスリップしてみたくなります。文京区側の緑の小日向台地に、クッキリと映える坂道。さぞかし印象深かったのでしょう。

新版江戸大絵図で、黄緑が小日向馬場。俗称キリシタン坂(緑ライン)、小日向新坂(青ライン、寛文年間にはまだ出来ていない、左の写真)と、相生東の坂、相生西の坂(赤ライン)。
今回、ここでは「鼓坂」とも呼ばれた二つの平行する相生坂を考えてみます。
実は坂道社長、この相生西の坂を時々、走っていました。
なぜかって?うーん、上部へ行くほど傾斜がキツくなっているのです。鍛えるには、神楽坂へ行くには、近道であり、鍛錬できる、ちょうど良い坂なのです(かなりゼエゼエしますが)。相生東の坂はどうかというと、西の坂よりはなだらかな印象です。
平行する二本の坂はなぜあるのか?
さて、ワトソ子くんに頂いた難題です。
なぜ、二本平行してあるのか?
坂道探偵が妄想するに、馬場と関係がありそうです。

このお江戸の成立期の地図でみると二つの相生坂(赤ライン)は階段坂です。坂の脇にある町が本来の五軒町(青矢印)。そして西の坂の坂上には車だまり、Parking poolならぬ、馬だまりなのか?広い場所(緑矢印)があります。この広場があることで今よりもずっと傾斜のキツイ坂だったということになります。
階段と馬場、階段と馬でピーンとくるのが、愛宕神社の階段を馬で駆け上った曲垣平九郎(まがき・へいくろう)のお話。
寛永11年(1634年)、徳川秀忠の三回忌として増上寺参拝の帰り、徳川家光が山上にある梅が咲いているのを見て、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣、曲垣平九郎が、お見事!馬で駆け上がって枝を取ってくることに成功し、馬術の名人として全国にその名を轟かせた。
階段を駆け上がって出世した武士がいると、真似したくなるのが常です(≧∀≦)。
そして五軒町の位置(青矢印)。町はまさに相生西の坂に面しています。馬場を造成した五軒町の人々は、当然、馬場の管理も任されたはずです。一大武家地である神楽坂から、馬場へ行くにはこの坂を通ります。馬術練習のため、坂を駆け下りる、駆け上る、そんなことをする武士も現れます。
「いっそのこと、この坂はおいらたちが管理して、お馬様専用にしねえかいっ、熊さん」
「おお!ええじゃねっか!いい傾斜だしよのぉ」
「もひとつ、人様用に坂作れば、安心安全ってもんだぁ」
そんな考えが浮かんだのかもしれません( ̄ー+ ̄)ニヤリ…。
人様用のほうがゆるやか。車道、歩道のような関係です。
馬のように?走って妄想した坂の成立過程です。
「ワトソ子くん、謎は解けたよ、私の仮説だけどね」とメッセ。リプライがすぐ返って来ます。
「坂道社長、すぐ行きますわ、スコーンをお持ちしまーす(笑)」
最後の(笑)は笑えないかもしれない。。。
私の頭のなかにスコーーーンと鹿威しの響きが(〃´Д`)。
お後がよろしいようでm(_ _)m。
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