東京都文京区で、主に古地図を使い、坂道の謎を解明している坂道探偵社。私一人で営んでいるので、人は私のことを坂道社長と呼んでいる。
ある夜、眠りにつけず、ふと、こんな記事を読んだ……。
異人坂について 異人坂は石碑に昭和6年(1931)に浅野侯爵家が造営したと刻まれています。異人坂の説明板には坂の上にお雇い外国人の宿舎があり、明治9年(1876)に東京医学校のお雇い外国人として来日したベルツが住んでいたと記されています。 しかし、ベルツの宿舎は今の東京大学医学部付属病院内で、この異人坂の坂上の地は明治時代以降、陸軍省用地、東京府、警察局用地(のちの警視庁)などを経て、第一高等学校になります。他の区域は浅野家の管理地で宅地化。 以上から異人坂の由来については疑問が残ります。この名称がつけられた別の理由があるのかもしれません。 坂の造成を浅野侯爵家が行ったことから「浅野坂」「侯爵坂」がふさわしいかもしれません。
坂名の別の理由?。異人坂の別の由来があるかもしれない?面白い!調査だっ!と、まずはその地に詳しい坂道探偵の相棒、通称ワトソ子君に現地の下調らべを依頼。
翌日、ワトソ子君から送られてきた数点の写真とメッセージ。

なんだよぉ〜、坂の写真が無いじゃんヽ(`Д´)ノ 。
しかしながら数枚の写真に付けられたメッセージは、まるで都会のゴーストタウンのイメージが匂ってくる……。
そして「近くには、おばけ階段もある。坂道社長も一度行ってみるといいわ……」と締めくくって終わっていました。
オッ、おばけ階段ってぇ!
日頃から勘の鋭い彼女は、ただならぬ何かを感じてリサーチを断念したらしい。
彼女はUNIX系のシステムエンジニアで理知的な女性ですが、歩くのが走るより早い。だって背が高く歩幅がひじょーに大きい。
六尺五寸の大女と云われている彼女ですら、おじけづいたのか?
私もググってみると……
異人坂 文京区弥生2-13 北側 坂上の地に,明治時代東京大学のお雇い外国人教師の官舎があった。 ここに住む外国人は,この坂を通り,不忍池や上野公園を散策した。当時は,外国人が珍しかったことも手伝って,誰いうとなく,外国人が多く上り下りした坂なので,異人坂と呼ぶようになった。 外国人の中には,有名なベルツ(ドイツ人)がいた。明治9年(1876)ベルツは東京医学校の教師として来日し,日本の医学の発展に貢献した。ベルツは不忍池を愛し,日本の自然を愛した。 異人坂を下りきった東側に,明治25年(1892)高林レンズ工場が建てられた。今の2丁目13番付近の地である。その経営者は朝倉松五郎で日本のレンズ工業の生みの親である。 文京区教育委員会 平成9年3月
おかしい、ベルツの屋敷は、今の東京大学医学部付属病院内にあったはずで、この異人坂とは、かなり離れています。
明治初期の地図をみても、
外国人教師の官舎などは無く、
辺り一面、茶畑ばかり。
明治9年に来日したお雇い外国人医師のベルツ。彼の著した「ベルツの日記」という本を読むと、ベルツの宿舎について「坂上に住居となる加賀藩屋敷(今の東大)、坂下には不忍の池」と書いています。
ここで言っている坂は「異人坂」ではなさそうです。
ゴーストタウン、ベルツ、おばけ階段と、謎が謎を呼ぶ。
「坂道社長も行ってみるといいわ……」と言うワトソ子君の言葉。当然ながら心を動かされ、坂道探偵の私としては、行くしかありません!

うわわわ、ただならぬ雰囲気、そして擁壁には横穴の跡が二つ。

坂上部分をV字に曲がると、古いガードレールが。

ガートレールには「昭和六年 浅野公爵家建設」とあります。
古いガードレールの壊れた箇所、横穴。
また、妄想がひとり歩き……。
これは防空壕と爆撃の跡か?。

より浅野公爵邸と異人坂。
浅野公爵家は明治後期の地図に大きく現れ、浅野公爵家の土地に、この坂も出現します。
ベルツの来日当初、この異人坂は無かったことになります。
確かに「浅野坂」「公爵坂」と呼んだほうがしっくりきます。
でもなぜ、この坂を異人坂と呼ぶのか?
疑問が浮かんできます。
坂上のゴーストタウン
ガードレール沿いに登ると、廃墟の雰囲気。ワトソ子君が撮った廃マンションです。
蔦の絡まる自転車、自動車が時を包むようで不気味です。
勇気を出してマンション脇の階段を降りると……。
空調用の換気扇が回る音がする……怖っ!
だっ、誰か住んでいる!異人かぁ?
いえいえ、廃マンションではなく、現役マンション。
どなたかがお住まいのようですが、管理会社がないようで、荒れ放題になっています。都会でこんな光景はめずらしい。

隣には蔦の絡まる廃旅館。こちらは正真正銘の廃墟のようです。
妄想するにマンションもこの旅館の持ち物だったのではないでしょうか。主人を失ったマンションは管理もママならない。
蔦の絡まる自動車は夜逃げした旅館のオーナーのものかも?
もしくは地上げ?
ふふふ、ワトソ子君、リサーチが足らなかったようだね。
しかし、このガードレールのある部分は異人坂とは呼ばないらしい。異人坂の坂上をまっすぐ行くと何があるのか?
そう思いながら、ふと景色をみると、目に入るのは、根津小学校。亡き父の母校です。

そうなのです。私には半分、江戸っ子の血が流れているのです。
母方は長野県諏訪湖出身の「矢島」姓で、家紋は真田幸村と同じ「六文銭」。甲斐の国のFB友、武田家旧温会の通称「おやかたさま」に調べて頂いた結果、家紋は疑問だが、諏訪神社の神主系で武田家臣団の可能性があると。そうなのです。矢島家のお墓も諏訪湖近くのお寺にあるのです。うーん( ̄^ ̄ ;)、話がそれてしまいましたが、亡き父の思い出が蘇ってきます。
あっ、思い出した!父と姉と一緒に「おばけ階段」を歩いた思い出があるある!
異人坂を登り、坂上をまっすぐ行き、道なりに右に折れると、
おばけ階段

父と姉と歩いた頃の、んっ十年前より幅が拡張されて、綺麗に整備されています。登りと降りとで、階段の数が違うと云う「おばけ階段」。姉は、数えながら登り降りし「ほんとーだ、数がちがうぅ〜」と言っていたが、私は、何度、数えても数が同じ。「同じだよ〜、おねいちゃん」「じゃあ、いっしょにあるこっ」。姉といっしょに歩くと、数が違う(*’д’*)。何度も登り降りする二人の子供を見て微笑んでいた父。最初の段を数に入れないで降りれば、数は違いますわぁ。ふふふ(*’ヮ’*)。しかしながら、この階段も異人坂同様、何か別の意味があるのかもしれません。
ベルツの屋敷に迫る!
不忍池を愛でたベルツの屋敷を訪ねてみましょう。今の東京大学医学部付属病院内にあったとのこと。看護職員の宿舎あたりで、旧発電所の上。

旧発電所は立入禁止エリアの廃墟でゲートの隙間からみると、荒れ放題です。
ここへは坂道を登って行きます。


「ベルツの日記」が云う通りのシュチエーションです。青矢印の屋敷が位置関係からみて、ベルツの屋敷っぽい。
同じような建物が近くに点々とあり、お雇い外国人教師たちの官舎かもしれません。
因みに私の祖父は根津の家具屋さん。家具を配達後に行方不明!一家総出で探すと、不忍池のほとりで、のんびりと大八車の上で昼寝をしていたと(≧∀≦)。大らかな明治のお話です。
そして、医学部構内にはベルツの胸像があります。
ベルツ・スクリバの胸像広場。最期まで日本で教鞭をとった二人のドイツ人医師が仲良く並んでいます。
東大医学部で、また、不気味なものを発見!人体解剖台だそうです。解剖時に溝から体液が流れ、集まる仕組み。怖っ((((; ゚Д゚)))。
異人坂の異人とは?
しかしながら、異人坂とベルツってぇ、どんな関係なのか?
ベルツの屋敷から遠い異人坂。ベルツのころには無かったであろう異人坂の命名の由来とは何か(?_?)
明治初期の地図をよく見ると坂道は無いが、近くに……

柵で囲まれた東京府癲狂院(精神病院)!。
時代の下った地図をみると……

右:大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図
異人坂のある道はブルーライン。青矢印がおばけ階段。
坂上には塀で囲まれた建物が……。
これは何だろう?キャ━━ o(*>∇<*)o━━ ッ!!!
注:これは古地図による考察で文京区坂道説明板を否定するものではありません(異人坂のあるじ、片目の猫より)。
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