家光公と藤坂の謎
藤坂は、別名を富士坂。
坂上から富士山が見えた、う〜ん納得。
またの名を禿坂。
坂下を川が流れていた。禿とは、かむろ、つまりカッパの意味、う〜んまた納得。
一般的には藤坂。
1650年、将軍家光公が高田で鷹狩りの後、この坂下の伝明寺に寄り、藤棚を見て、いたく感動して、藤寺と命名したので。
これはあやしい。


豊島区高田から江戸城に帰るなら、わざわざ遠回りして、ここは通らないような気がします。新宿区を通るし、文京区を通るなんて方向音痴です。怪しいお話なので古い地図で調べてみたら、驚きの事実を発見!
明治初期の地図でこの辺りを見ると今の共同印刷辺りに、なにやら懐かしのインベーダーっぽい形の池が⁈


江戸時代の切絵図では松平播磨守の下屋敷か小野佑三郎下屋敷になっている辺りです。
そうです、このインベーダーは狩場なのです。
鷹狩りの練習場というか、郊外に行かなくても近所で鷹狩りが出来る施設。
今でいうところのゴルフの打ちっ放し的なもの。
鷹狩りは将軍、大名のレジャーですからねえ。
狩場では普段から鴨を飼っていて、
インベーダーの足のところで餌付けをして、
それらをデコイにして、
釣られて来る野生の鳥を、
鷹を放って、とっ捕まえる。
なんとシステマチックな!。
このような施設は大名の下屋敷に多く存在していたらしく、桂離宮ではまだ現物が見れるそうです。
う〜ん、明治初期までこんなものがあったなんて驚きますよね。
この狩場に家光公が訪れたのかどうかはわかりません。
なお且つ、家光公が没したのは1651年。その前年は元気だったのでしょうか?謎です。
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