文京区のお茶の水坂はJR水道橋駅から順天堂前交差点まで、約750メートル続く長い坂です。というか外堀通りの一部です。
ランには持ってこいの長坂なのですが、名所、気になるものが多く、ついつい足を止め、探索してしまう魅力的な坂なのです。
お堀の向うの千代田区側も興味シンシンです。
お茶の水坂の由来
お茶の水坂 この神田川の外堀工事は元和年間(1615-1626)に行われた。それ以前に、ここにあった高林寺(現向丘二丁目)の境内に湧き水があり"お茶の水"として将軍に献上したことから、「お茶の水」の地名がおこった。 『御府内備考』によれば「御茶之水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶の水に召し上げられしと…」とある。 この坂は神田川(仙台堀)に沿って、お茶の水の上の坂で「お茶の水坂」という。坂の下の神田川に、かって神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治34年(1901)取りはずされた。 お茶の水橋低きに見ゆる水のいろ 寒む夜はふけてわれは行くなり 島木赤彦(1876-1926) 文京区教育委員会 平成9年3月
説明板にある湧き水のあった高林寺を
地図で探すと……

この古い地図に「光林寺」とあります。明暦の大火(1657年)後に移転しています。場所は坂中腹の今の順天堂、医科歯科大周辺に広大な敷地としてあったと思われます。
この説明板で「”お茶の水”として将軍に献上」とありますが、将軍への献上なので最上級敬語として「御茶ノ水」(おんちゃのみず)が最も古い呼び名のようです。
ここの辺りは変遷の激しいエリアです。


湯島聖堂が出来て、お隣は「桜の馬場」(馬術練習場)だったのに、幕末10年間の間に「鉄砲鋳場」(鉄砲製造所)になっていて、幕府の慌てぶりが伺えます。
神田上水懸桶跡


お茶の水坂と言えば、神田上水懸桶(かけひ)。水道水専用の橋が架かっていたのです。
今では碑しかないのですが。

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神田川の仙台堀をまたいで、神田上水の水道水を江戸市中へ供給していたのです。仙台堀ってぇ伊達政宗の仙台藩が開削を担当したのです。それ以前は「神田山」だったところです。
え〜っ!と、それだけでも驚きですが、川の上をクロスする水道の橋、珍しくて観光名所だったことでしょう。
そんなものがここにあったと想像するだけでも楽しいものです。

明治初期の地図では「万年筧」(まんねんかけひ)とあります。明治34年、廃止されています。
シンメトリーな元町公園
お茶の水坂中腹の元町公園のデザインテーマは、シンメトリーでしょうか。
あちこちに対称形が見られ、廃墟感すら漂う、心をくすぐる公園です。
大正12年に関東大震災が発生した後、東京市は帝都復興計画の中で、大公園3箇所、小公園52箇所の震災復興公園の設置を計画しました。 小公園は、地域住民の利用のほか、隣接する小学校の校庭の延長となる教材園及び、運動補助場として、さらに、災害時の避難場所とする目的で計画されました。 元町公園は小公園の1つとして、昭和5年、旧元町小学校に隣接する敷地に開園しました。 文京区HPより
正面エントランスの対称形。
カスケード(水槽階段)も。
滑り台、砂場まで対称形。
これは凸と凹の十字の対称。ワクワクします。
とことん、シンメトリーに拘っています。
文京区はこの公園の歴史的価値を認め、昭和50年、復元的改修を行っています。なぜ、復元的改修と言っているかというと完全なオリジナルに復元出来なかったらしい。
この柵は角パイプ製ですが、オリジナルはなんと鋳物製。
鋳物の街、川口市出身の私としては、これを鋳物で作るとしたら相当な技術と想像します。鋳型を作るのも鋳型に流すのも、たいへんそうです。
その鋳物製の柵、他の金属製のものは戦中の金属供出で失われたようで、作成時の最高技術も失っていたのかもしれません。
ほとんど人が訪れない古風で静かな公園です。坂の中腹にあり、水道橋駅、御茶ノ水駅どちらからも遠いのです。
あまり人が訪れないためなのか、ここにスポーツセンターを建てる計画があるようです。歴史を残すか、区民の健康を考えるか、頭の痛いところです。
この公園を出てトイメンのお堀側をみると、
おやっ!変わった柵が見えます。
お茶の水坂の柵タイプ
柵に興味シンシン。坂下からお堀側を見てみます。
坂下部のものは石柱の間にフェンスが取り付けられていて、それほど古くありません。
やや登り、坂中腹、おや?、古い石柱に凹があります。もっと登るとパイプ付きのものがあります。
まだ行くとパイプ一本だけタイプ、白いパイプもあります。柵があるのに金網フェンスで二重防御も。
うわっ!これは柵が直角に曲がっていたところ!面白いので勝手に「直交ジョイントタイプ」と名付けてしまいました。
なぜ、こんなにいろんなタイプがあるのか、パイプのないところはパイプが朽ちたとは考えにくい。なぜなら、パイプが現存しているところもある、同素材なら同時期に朽ちるはずです。
不思議です。なぜ?
考えられるのは元町公園と同じように、戦中の金属供出。
危ないところだけパイプを残したようです(崖下は深いですから)。そして、白パイプは取り過ぎてしまった危ない箇所を戦後に修復。坂下近くの凹無しタイプは近年、石柱のデザインを踏襲しての入れ替え新設でしょう。
金網フェンスとの二重防御のところは、最も危険ということ!

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あぶないので、以前は土塁があったようです。ここは中国の赤壁にあやかって仙台堀の「小赤壁」と呼ばれていたところです。

因みに茗荷谷で見た古いガードレールとデザイン的には同じです(大小の違いはありますが)。

茗荷谷のものも、デザイン的にみて、やはり明治期設置の可能性が高いです。しかもパイプのあるとこ無いとこってぇ戦中の金属供出だったのかぁ!と謎も解けるし、なんかスッキリ!。

旧東富坂にあるガードレールは坂の開削時期からみて昭和30年代のデザインと思われます。当然、パイプは抜かれていません。
不思議な通路
お茶の水坂途中の神田川沿いに、川へ降りる通路があるのですが、鍵が閉まっていて降りることができません。
見たところ、よい散歩道なのですが、なぜでしょう?
古写真を探すと……

なんだか、この古写真で鍵の意味がわかります。いずれにせよ、増水したら危険なところです。
対岸の千代田区側を探索
対岸にはガードレールは無かったのか?調べるために坂上のお茶の水橋を渡り対岸に。



明治後期の地図で確認したところ、文京区側には柵記号がありますが、千代田区側はJR中央線の前身である甲武鉄道が開通していて、鉄道のフェンスはあったと思われます。

御茶ノ水駅から水道橋駅に下っていくと、
絶対読めない漢字の坂が!
千代田区の皀角坂(さいかち坂)
昔、さいかちの樹が多くあったので、さいかち坂。

坂別名チャンピオンは今のところ新宿区の庚嶺坂(ゆれいざか)ですが、皀角坂 (さいかち坂)は、別名、皀坂(さいかち坂) 皀萊坂(さいかち坂)と読み同じだけど、難読漢字チャンピオン!どれでも読めません。3つでチャンピオン?。
実はもっとあるのです。
同じ「さいかち」読みなのですが、漢字変換はおろか、とあるアプリの異体字にも出てきません。なので作字してしまいました。こんなことは滅多にありません。
難読漢字坂しかも別字多い部門チャンピオン決定です。
皀角坂を降りて行くと!
ありましたフェンスの跡!いつの時代のものかわかりませんが使用済線路リサイクル版のフェンスの痕跡です。
線路で思い出しました。
水道橋駅の線路間の柱は使用済線路をリサイクルしたものです。
芸術的なリサイクルです。
その古い線路は、明治19年(1886年)製造、ドイツ国「ドルトムント・ワニオン社」製。
サッカーの香川真司が移籍して初めてドルトムントという地名を知りましたが、明治時代からドルトムントと関係とは。
頑張れ!香川!o(^-^)o
【追記】ご連絡いただき、皂も皁もありました!皂角子(そうかくし)……読みが違っていましたm(_ _)m。
皂莢(そうきょう)さいかちは、梍莢、梍、皁莢、西海士、西海子の表記もあるそうです。
いずれにせよ、
最強の難読漢字坂しかも別字多い部門チャンピオンです。
そうかくし=総隠しとなると、またゴミ坂疑惑が湧いてきます。
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